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何かあったら、書いてます。いろんなことが織り混ざっているので、何でもこい!な方はどうぞ。 更新は、遅いかも。
2019/02/05(Tue)00:20
No.531|Garden|Comment(0)|Trackback
2018/07/16(Mon)18:23
No.529|Garden|Comment(0)|Trackback
2016/02/17(Wed)21:08
「ガーデン・・ハート国・・・。」
リリスはゆっくりと咀嚼するような速度で、その言葉を口にした。
信じられないというよりも、何を言われたのかまだ理解できていないという顔で、見開かれた瞳は、アデルの次の言葉を待って動かない。
「俺は、国の使命を帯びてこの町までやってきた。
その使命は、今言った通り、ここに住んでいるという魔女の存在を確かめ、その力をこの目で見極める事。そして、その人物が我が国にとって、必要な人材であるのなら、共にガーデンハート国へ来てもらうよう交渉すること。」
「で、でも今、アデルさんが探していた魔女は、祖母のことだと・・・」
「初めに耳にした噂は、君ではなく、君のお祖母さんのことで間違いないだろう。だが、彼女はすでに亡くなっていた。そして、元の主がいなくなってしまった魔女の家に・・・この場所にいたのは君だった。だから、君がその噂の魔女なのではないかと思い、君のことをずっと観察していた。君の能力がどういったものなのか、それを見極めようとしていたんだ。・・・・俺の方こそ、君を騙すような真似をして、すまない。」
アデルは、静かに頭を下げる。ただ本当に申し訳ないという気持ちからの行動だった。
「君は、俺が初めに探していた魔女ではなかったかもしれない。だが、先程の力を見て、君のその能力は、我が国に必要なものだと感じた。だから、もしも君が嫌でなければ、俺と共に来てほしい。」
「・・・・。」
しばらくの沈黙の後、リリスの右手がそっとアデルの左腕に触れた。
ハッとして顔を上げたアデルの前には、眉根を下げ、戸惑いを隠せないでいるリリスの顔がある。
「・・・顔を上げてください。その・・・私にはそんな、・・国のために役に立つような力は、ありません。」
困惑しているようでもあり、どこか寂しそうでもある。リリスは、なんとも形容し難い複雑な表情をしていた。リリス自身も、なんと言葉を返そうか迷いながらしゃべっているのが窺がえる。
“そんなことはない。”アデルは反射的にそう返そうとしたが、直前で思いとどまった。彼女の能力の事を、先程初めて目にしたばかりの自分が彼女以上に分かっているはずなどなく、それを自分が語るというのは、いかにもおかしな話だと思えた。
そして、己の使命を打ち明け、彼女に同行を願い出ておきながら、どこか頭の片隅で、彼女のこの生活を、平和な暮らしを壊してはいけないとも考えていた。
たった1週間。そんな短い期間だったが、アデルはリリスが暮らすこの町を、この場所に暮らす人々を、生活を、その空気を、いつの間にか好きになっている自分がいることにも気が付いていた。
自分に、それらを壊すような権利はない。
「・・・薔薇の、話をしたことを、覚えているか?」
「!」
「その花を国花とする国、ローズ国・・・あの国の国王は、強欲で、元来争いを好む。それは、その地位の者が何代代替わりしようと変わることはなかった。
今から25年前、世界中で醜い小競り合いが続いていた時代は終焉を迎え、ガーデンハートが世界の中央に位置し、議会を開く場を設けた。今では、よほどのことがない限り、大規模な戦争は起こらない。しかし、あの国だけは例外だ。辛うじて議会へは出席しているものの、他国と足並みをそろえる気は全くないと言っていい。そして未だに、隣国への侵略行為を続けている。」
リリスは、祖母の作ったこの庭に、唯一咲くことのない花の姿を頭の中に思い描く。それがこの庭に咲いた時、世界は真に平和となるのだと、そう語っていた花。
「あの国は、他国の技術を奪うが自国の技術を絶対に外には出さない。様々な手段を講じてきたが、有事の際にも、完全に自給自足できるシステムを構築している上、様々な点で一国の中に力を持ちすぎていて、下手に手を出すことも出来ない。
そして、君のお祖母さんが言っていた通り、ローズ国と・・・あの国とどう向き合うかが、この世界が平和を手にするための大きな課題だ。」
つい昨日、裏庭のベンチで海を見つめながら語っていた時と同じ顔だと、リリスは思った。その瞳に宿る力強い光は、彼の使命に対する、固い決意の表れだ。
涼しげなダークグレーの瞳に、ゆらりと灯る熱を感じて、リリスはそれをじっと見つめる。
「今、ガーデンハートは、世界各国から様々な知識人、技術者、科学者などに協力を仰ぎ、ローズ国に対応出来るような国力を手に入れようとしている。これはあくまでも、他の全ての国との協力体制を整え、ローズ国に立ち向かうための手段であり、その下地作りだ。ガーデンハートが中立連絡国家であることは、変わらない。」
そこまで話して、アデルはふっと息を吐いた。そして、視線を下げると、ゆっくりと立ち上がる。もう一度目が合うと、先程まで決意と熱意に燃えていた瞳は、すでに平静の色を取り戻していた。穏やかな凪を思わせる双眼に、リリスは自分の胸がトクリと小さく跳ねるのを感じた。それはまるで、自分の胸の奥に燻る、まだ火種とも言えないような微かな想いまで見通しているように思えたからだ。
「・・・君は、どう思っているのか分からないが・・・・少なくとも俺は、君のその力が、世界を平和へと導く大きな力になると思っている。」
そう告げると、アデルは入ってきた木戸の方へ踵を返した。
「っつ//アデルさん・ッ・・!」
リリスが慌ててその背を追おうと立ち上がりかけると、それを制するように、アデルは扉の前で一度足を止めた。
「俺は、明日の朝1番に出る乗合馬車に乗って、この町を発つ。」
「!」
「もしも、俺と一緒に来てくれる気持ちがあるのなら、ここから森を抜けた先にある公道まで来てくれ。馬車がそこを通るはずだ。・・・無理強いをするつもりはない。来たくなければ、来なくていい。」
突き放すような言い方になってしまったかもしれないと、アデルは己の言葉の足りなさに、舌打ちしたい気分になった。背を向けているため、リリスの表情は窺い知れない。
「急ですまない。その、・・・本当は今日、ここには、君に別れの挨拶をしに来るつもりだった。それがまさか、こんな形になるとは思っていなかった。後味の悪い挨拶になってしまい、併せてすまないと思っている。・・・・明日、君が現れなかったとしても、君の力の事は、決して口外するつもりはない。・・・これだけ隠し事の多い人間を信じろというのも可笑しな話だろうが・・でも、信じてほしい。この町の人々が守り続けてきた秘密は、秘密のまま。国には“魔女はいなかった”と、そう報告するつもりだ。」
木戸に手を掛けたところで、逡巡する。アデルは、静かに後ろを振り返った。
「君の入れてくれたアッサムティー・・・とても美味しかった。ありがとう。」
微笑もうとしたはずなのに、普段あまり使わない筋肉に無理をさせたためか、引きつったピエロのような笑顔になる。
押し開けた木戸は軽く、慣れない引きつり笑いの様な音を響かせながら開くと、パタンッと、まるで外気と内気を明確に分かつかのように、それは大きな音を立てて閉まった。
『おばあちゃん!おばあちゃん!』
鈴の音のような声に呼ばれ、白い部分が多くなった髪を一纏めにした後ろ頭が振り返る。
コロコロした飴玉みたいな瞳を輝かせて、紅茶色の髪の幼い少女が本のページの端を小さな両手でぎゅっと掴んで立っていた。
『おばあちゃん!見てください!このお花、とってもきれいなの!』
そのページを広げて見せようと、老女の太もも程の高さしかない少女は、懸命に身体をピンと縦に伸ばしている。広げられたページを目にした老女は、瞬間、驚いた顔をして、それからはははっと快活な声を上げて笑った。
『それはね、“薔薇”という花だよ。』
『ばら?』
『そう。この国からは遠く離れた、ローズ国の国花だ。』
少女の頭を撫でる手は、長年の庭仕事で染み込んだ、お日様をたっぷりと浴びた土の匂いがする。すっぽりと頭を覆う手袋みたいな大きな手。小さな少女には、その感触がとても力強く感じられた。
『わたし、こんなきれいなお花、はじめて見ました。お庭のどこにも見たことがなかったから。ねぇ、このお花は、いつ咲くの?』
純粋な眼差しを受け止めて、老女はゆったりと膝を折る。少女と同じ高さに目を合わせると、さらりと指の間を抜けていく髪の感触を楽しむように、少女の前髪をすくった。
『・・・その花はね、この庭には咲いたことがないんだ。』
『おばあちゃんでも、咲かせたことのないお花があるの?』
少女の目は、まんまるに広がる。
『そうさ。あたしにだって、出来ないことがある。この世界を平和にするなんて、それこそ夢のような芸当はね。』
『?』
少女は、祖母の口から突然飛び出した“へいわ”という言葉に、小首を傾げた。
今はお花の話をしていたはずなのに、何故祖母は突然、“せかい”と“へいわ”について話し出したのだろうかと。
不思議そうな顔をする彼女に、老女は口元に悪戯を思いついた子供のような笑みを浮かべて、本に描かれた挿絵の薔薇に、トンッと一つ指をついた。
『あたしはね、たった一度だけ、この目で本物のこの花を見たことがある。』
『ほんと!?』
『あぁ、本当さ。それはそれは、綺麗な花だった。』
少女の瞳に、憧れの光がキラキラと溢れた。“せかい”や“へいわ”のことなんて関係ない。ただ純粋に、その美しいモノを自分も見てみたいという希望が、流れ星のように少女の身体中から溢れ出している。
『わたしも!見てみたいですっ!』
老女はその眩しい輝きににっこりと目を細めながら、さらりさらりと少女のまあるい頭を撫でた。
『あたしも、この目で見てみたいねぇ。この庭に、薔薇の花が咲くところを・・・。』
「・・・・おばあちゃん・・。」
リリスは、細い指先で挿絵の花の輪郭をそっとなぞる。
初めて彼女がこの本の中で薔薇の花を目にした時から、もう10年近くが経っていた。今のリリスには、祖母の言っていた“世界”や“平和”の意味も、もうすっかり理解できる。
祖母が作ろうとした魔法のような庭の、最後の夢。そして・・・・
(私の夢・・・・・)
“いつかこの庭に薔薇の花が咲いた時には・・・その時には、世界は平和になるんだ”
祖母の言葉を思い出し、リリスはやつれた革表紙の本を、そっと胸の前に抱き寄せた。
「色々と、お世話になりました。」
まだ日の昇りきらない時間帯だというにもかかわらず、宿屋の女将と息子は、わざわざ店先までアデルを見送りに出てきてくれていた。
「いいんだよぉ!そんなにかしこまらなくったって。あたしたちも、あんたと話ができて、楽しませて貰ったんだから。なにはともあれ、気をつけてお帰りなさいな。」
「また、近くに来た時には、寄ってくれ。」
二人と固く握手を交わすと、アデルはそれほど多くはない荷物を肩に、一人、乗合馬車に乗り込んだ。年老いた御者は、アデルが座席に座ったのを確認し、パシリとひと振り、手綱をなびかせ、馬車を発車させる。
パカシャッパカシャッと、独特のひづめの音を響かせながら、アデルを乗せた乗合馬車は、朝霧で霞む町の中央道を走り出した。見送りの二人は、アデルが見えなくなるギリギリまで手を振ってくれていたが、それも霧の向こうに霞んで消えていく。
(・・・・来ては、くれないだろうな・・。)
岬の方角を眺めながら、アデルは公道を走る馬車のリズムに身を任せる。始めの内は問題ないが、長時間座り続けていると、かなり尻と腰に響くことを、この町へやってきたときに嫌というほど学んでいたが、今はこの一定のリズムが、どこか心地よく感じられた。
昨日、リリスとなんとも苦い別れ方をしてしまってから、後味の悪い気持ちばかりが残るかと思われたが、今朝起きた時から、不思議とアデルの心は落ち着いていた。
今となっては、あのような別れ方になってしまったことが、逆に、彼女のことを思えば良かったのではないかとさえ、思っている。
来てもらえるものならば、それはもちろん嬉しいことだが、しかしそれは同時に、今の彼女の平和な生活を壊してしまうことになる。そして、彼女や、町の人たちが守ろうとしてきたその力を、外の世界に出してしまう。
(それは、果たして正しいことなのだろうか・・・・)
今の彼には、その判断がつかなかった。
世界の平和のために。そう言ってしまえば、それはきっと正しいことなのだろう。しかし、それはあくまで、行動を起こす本人が決めること。アデルは、そして、ガーデンハートは、決して、誰かを傷つけるような平和を望んでいるわけではない。
気がつくと、すっかり親しみを覚えてしまった町の風景は、徐々に後ろへと流れていった。まだ、どの店先も開店の準備には早い時刻で、聞こえるのはそこを走る馬車の音だけ。
その乗合馬車にも、アデル以外に乗る者はなく、馬車は一定の速度で霧の中を進む。
いつの間にか町並みも閑散とし、町から少し外れた左手にうっすらと教会の十字架が見えた。ここから先は、建物のない森の中の道となる。
パカシャッパカシャッパカシャッ
傾斜のついた道も、その馬力でスピードを落とすことのないまま、両側の景色は完全に森林に変わっていった。
アデルは、じっと一つの方向を見つめているが、すでに、左手の森の向こう側になってしまった魔女の岬は見えない。
パカシャッパカシャッパカシャッパカシャッ
両側に森を配す公道の左手前方に、薄く、道とは思えないほど心許無い道が、森から公道へと伸びているのが見えてきた。
それは、アデルが初めてこの町に・・・魔女の岬に来た時に降り立った、森を突き抜け岬へと続く、獣道のようなか細い道だ。
そこに、リリスの姿は、ない。
パカシャッパカシャッパカシャッパカシャッ
淡く霧が立ち込める中とはいえ、見間違うような距離ではない。いくら目を凝らそうとも、やはり、近づいてくるその道の上に立っている者はいなかった。
「・・・・。」
アデルは、胸元から懐中時計を取り出す。時刻を確認すると、まだ5時を回って間もない。
パカシャッパカシャッパカシャッパカシャッ
「あの、すみません!」
揺れる馬車の上を、アデルは少しフラつきながら進み、前の御者へと近づいた。
「すみません!」
「!ああ?」
耳が遠かったのか、やっとのことで声に気がついた老人は、すぐ後ろに立っているアデルを見上げるようにして振り返る。
長い眉毛で覆われてしまった目の表情は伺えない。
「なんだね?」
「次の町までは、まだ時間に余裕がありますか?」
「はぁ。まぁ、こんな朝早くに乗ってくような人は、この辺に住んどる人間には、あんまりおらんでな。あんたみたいな、他所のとこから来た人くらいのもんだで。そうそう、急がんけんど。」
「急がないようでしたら、そこの横道の前で、一度馬車を止めてもらってもいいですか?
3分だけでいいんです。3分経ったら、もう行ってもらって構いませんから。」
「はぁ。それは、まぁ、ええですけど。」
パカシャッパカシャッ・・・・
御者は訝りながらも、小さな横道の前で、馬車を止めてくれた。
アデルは、馬車から地面へ降り立ち、道の先を見つめながら待つ。
3分。それで何が変わるとも思ってはいなかった。でも、せめて最後に一言、昨日のようなものではない。別れの挨拶だけでも、彼女は言いに来るのではないか。今朝までは、あんな別れ方で良かったなどと思っておきながら、心の底ではそんな淡い期待を持たないわけではない。
(・・は、・・・俺も案外、優柔不断だな。)
手にした時計の規則的な音が、静かな霧の森の中で、やけに大きく聴こえていた。
ブルルッと馬の嘶きの声に、御者が「どうどう」とその横腹を撫でる。
「あんた、誰か待っとりんさるんか。」
「・・・・。」
カチコチカチコチと、時計の針は時を刻んで進んでいく。見つめる先の森は、微動だにせず、いつまで見つめていても、何も、変わることはなかった。
カチコチカチコチカチコチカチコチッ・カチッ・・・――――――
アデルは小さく息を吐き、一度じっと目を閉じると、懐中時計を胸元に仕舞う。
「・・・・行きましょう。」
「もう、ええんかい?」
「えぇ。無理を聞いてくださって、ありがとうございました。」
「誰か、待っとったんじゃ・・・。」
「いえ、・・俺の勘違いだったみたいです。」
そう答えるアデルに、「はぁ、そんだったなら、ええけど・・・。」と御者もそれ以上は口を挟まなかった。
森に背を向け、再び、乗合馬車のステップへ足を掛けた。
「待ってくださーーーい!!」
「!!」
「おぉ?」
突如、森の奥から聞こえてきた声に、御者の毛深い眉が上がる。
アデルも思わず、ステップに乗り上げかけた足を止めて、地面の上へ身体を戻していた。慌てて振り返れば、鬱蒼とした森の奥から、何やら物凄い勢いで駆けてくる音がする。というか、人一人が駆けてくるだけで体感的に物凄いと形容されてしまうような音が出ているというのは、おかしい。
これは、どう考えても嫌な予感しかしない。
生い茂っている草木の所為で、奥が見えない森の中から、パッと、言葉で言うならば本当に“急に”少女が一人姿を現した。
「!リリス!」
「あ、アデルさん!」
リリスは、アデルの姿を見留めると、一瞬で笑顔になり、そのままの勢いで駆け寄ってくる。いや、そのままの勢いじゃ駄目だろうということに気がついたときには、もう止めるための声を掛けるタイミングを見事に逸してしまっていた。
「あ、のっ、すみません!足が止まりませっ・・・わはぷっ!!」
「待て!だから、もっとスピードをっ・・・うがっ!!」
ドンッと、分かりやすい音を立てて、アデルはその場に尻餅を付いた。それはもちろん、リリスが真っ直ぐ、アデルに向かって突っ込んで来たからで。その彼女の身体を全身で受け止め、ついでに、勢いでゴチンッと後ろ頭を、先程足を掛けようとしていたステップに強かに打ち付けた。
それこそ何度目かの既視感を覚える。
「はばあっ!あ、アデルさん大丈夫ですか!??;;」
「いっつ//・・・君は、いつも先を考えずに突っ込んでくるな・・・・。」
「す、すみません;;あの、お怪我は、今、頭を打ったんじゃ・・・」
あわあわとアデルの身の心配をするリリスに、アデルはふっと小さく息を吹き出した。
「そんなに慌てなくても大丈夫だ。俺は、君が思っているよりもずっと頑丈な方だし、それに・・・誰かのおかげで、ここへ来てから、こういったことにはもう慣れた。」
「あ、え、あの、す、すみません・・・///」
赤くなって下を向いてしまったリリスに、アデルは気の抜ける感覚を味わう。これも、もう何度目のことなのか。最早、数えるのも馬鹿馬鹿しい。
「・・・その、そろそろどいてもらえると助かるんだが。」
「え、あ!はい!今、どきます!///」
慌てて、リリスはアデルの上から立ち上がった。それに続いて立ち上がると、アデルは漸く落ち着いてリリスの姿を見ることが出来た。そこで初めて、彼女の服装が、自分の見慣れたそれとは異なっていることに気がつく。
いつも着ていたシンプルなワンピースではなく、動きやすさを重視した短いパンツに折り返しのないスタンドカラーのシャツと、その二つを繋ぐように胸まで覆うオーバーコルセット、そして、編上げの長いブーツを履いたスタイル。
背中には、大きなリュックを背負っていた。
いつもよりも衝撃が大きく感じたのは、そのリュックの重量分か。などと、冷静に考えていたが、問題はそこではないと、改めてリリスの顔を見る。
「リリス、君は・・・・」
「私、アデルさんと一緒に行きます。」
「!」
リリスは、いつもの澄んだ瞳に決然とした意思を宿して、アデルのことをしっかりと見据えた。
「今まで私は、ただ漠然と・・・祖母の抱いていた夢を、いつか私が叶えられたらいいと、そう思っていました。でもそれは、あそこで、あの場所で、ただじっとしているだけでは、叶わない夢なんだということに気がついたんです。
アデルさんも言っていたように、ネリネ国は・・・ラントの町は、とても平和です。もちろん、エミリーちゃんのような戦争孤児もいますが、それでも、きっと他の国と比べると、それほど大きな争い事もない、静かな場所なんです。だから私は、これまで、この世界の平和のことや、外の、他の国の戦争のことなんて、それほど深く考えたことがありませんでした・・・。」
視線は一度、静かに地面へ向けられた。そこに何があるということではなく、何と言えば自分の考えたことが相手に伝わるだろうか。リリスは、ゆっくり呼吸を整えながら考える。
「・・・私、アデルさんと出会って初めて、ちゃんと外の世界のことを、考えてみたんです。この世界には、ネリネ以外にも、沢山の文化が違う国があって、祖母の作ったあのお庭のような、色とりどりのお花の名前を持った国があって、そこではきっと、私の知らない様々なことが起きている。お花が、それぞれ個性を持っているように、きっと色んな個性を持った国が、この世界にはあるんですよね・・・・私は、それをもっと知りたい。この目で見てみたい。・・・そう、思いました。」
リリスは、そこまでを自分でも噛みしめるように言葉にすると、再び顔を上げ、アデルのことを一心に見つめた。己を奮い立たせるようにして、両手をぎゅっと力強く握りしめる。
「・・・・・私の力が、どれほどこの世界のためになるのかは、分かりません・・・。
でも、誰かが世界の平和のために、この力が役に立つと言ってくれるのなら、私は、それを信じてみようと思いました。祖母の夢を叶えるために、少しでも自分に出来ることがあるのなら、私はそれをしたい・・・。」
リリスの瞳の中に、幻想的な色彩が滲む。晴れてきた霧の隙間を縫って降りた、太陽の光の反射か。はたまた、彼女自身の持つ不思議な力によるものか。
それは、淡く深く、碧や金の砂粒を散らし波打つ紅茶色の海の様に、キラキラと瞬いた。
「アデルさん、私を、ガーデンハート国へ連れて行ってください。」
・・・・武者震いと、いうのだろうか。今確かに、自分の身体の中を、一種の電流のようなものが走った感覚があった。
アデルは自分のことを、本当に優柔不断な天邪鬼だと思う。
(あんなに、彼女のためにならないと、そう納得していたはずなのに・・・・。)
そのはずだったのに。
彼女の言葉を聞いて、ただ単純に嬉しいと、そう確かに思っている自分がいる。
この煌らかな瞳を持つ少女を世界へ連れ出すということが、一体どういう意味を持つのか。
(それは、まだ分からない・・・でも・・・・)
でも、これはきっと、この世界が踏み出す、意味のある大きな一歩に違いない。
自然とこみ上げてきた笑顔を、素直に表情に反映して、アデルは静かに右手を差し出した。
「よろしく頼む。」
「!は、はい!こちらこそ、よろしくお願いします。」
強く握り締めたその手は、ほっそりと小さく、ごく平凡な少女のそれだった。
でも、それはどこか、優しい力を感じさせる不思議な温かさを持っていた。
第一章:魔女の岬に住む少女・END
No.523|Garden|Comment(0)|Trackback
2016/01/29(Fri)00:03
『当てが外れた。任務を終える。
明日には、こちらを発つつもりだ。迎えを頼む。 ―アデル・ガーランド―』
手紙に封をすると、アデルは小さく息をついた。
ここへ来てから、もうすぐ1週間が経とうとしていた。任務のために訪れたこの町で、意図せず休暇のような過ごし方をすることになってしまったが、任務の成果がないながら、骨休めになったという点では、そう無意味なものでもなかったのかもしれない。
「明日にはここを出ていくなんて、随分急な話だねぇ。ま、またいつでも遊びに来なさいな。そう観るところもない町だけど、のんびり老後を過ごすには最適の場所だよ。」
宿屋の女主人は、そう言って快活そうに笑うと、親切に郵便局の場所を教えてくれる。
朝食の席では、宿屋の一人息子が、歳の近い話し相手がいなくなるのが寂しいと、ほんのり残念そうな様子を見せた。
たった数日の間で、宿泊先のオーナーとこれほど気さくな関係を築けたのは、この町が初めてだと、アデルも表情を柔らかくして、それに答える。何度も任務であることを忘れそうになるという窮地(?)に立たされたことも確かだ。それだけ、本当に心休まる良い町だった。
ここで過ごした数日、任務の目的であるリリスの様子をずっと観察してきたが、少なくとも自分の見るところ、彼女はたった一人であの“魔女の岬”と呼ばれる丘の上の家に暮らしていること以外に、普通の少女と変わるところは見られない。
ここに来てからの目立った変化といえば、自分の知識にトマトの苗の植え方と飲み物の種類に関する情報が増えてしまったことくらいだ。アッサム、カモミール、アールグレイといった名称は、アデルの辞書の新しいページに記されていた。
特に、カモミールは要注意だ。通常ならば、そんなところに分類されるものではないはずの飲物は、彼の中では危険物扱いの項目に加えられている。
「おう、ガーランドさん。今日は、良い苺が入ってるよ。買ってかないかい。」
「あ、いや・・・;;」
「ガーランドさん、そこの川で今朝釣れたばかりの鮎があるよ!どうだね、今夜の夕飯に女将へ頼んでみたら。」
「え、えぇ、ありがとうございます;;;」
本当に、気を許しすぎた。
町中を郵便局の方向へ向かいながら、アデルはまだ宿から出て数メートルも進んでいないというのに、早くも疲れを感じていた。なにしろ、行く先々で声がかかる。ここへ来てから、リリスと連れ立って町を歩き回ってしまった所為か、やたらと町の人から声をかけられるようになってしまった。顔と名前を覚えられてしまったこともあるが、何より、彼がリリスの客人だと聞いたせいか、みんながみんな、アデルに対して妙に親切に接してくるのだ。嫌われて追い払われることに比べれば幾分かましだが、隠密行動をとるべき立場のアデルからすれば、非常に不本意なことだった。
(やはり、ここからは一刻も早く立ち去らなければ・・・)
手に持った手紙をぐっと強く握り込む。
「はい。確かに受け付けました。」
眼鏡をかけても尚、目を細めながら宛名を確認する老眼の紳士は、そう言ってアデルから受け取った郵便物を自分の後ろの棚の中へと入れた。背はもう随分と縮んでしまっているように見受けられるその老人を、アデルが”紳士”と心の中で称したのは、その老人の服装が年の割に洒落ており、且つ飾り過ぎず、小奇麗に整えられていたからだ。
センスの良い奥さんがいるのか、その人自身がそういった部分に気を使う性質なのかは分からないが、この人物の柔らかな対応からして、良い歳の重ね方をしてきたのであろう。
この町の住人は、どの人も違わずそういった空気を纏っている。
『ここのところ、アデルさんが毎日ここへ来てくれることが嬉しくて。アデルさんは、ここでのお仕事が終わったら、帰っていってしまうんだということを考えたら、なんだか急に寂しくなってしまいました。』
(「寂しい」・・か・・・・)
ほんの1週間のはずが、なんだか随分と長い時間をここで過ごしたような気がする。
アデルは胸の中に浮かび上がる久しく感じた事のなかった気持ちに、多少なりとも驚いていた。寂しいなどと、そう思ったのは一体いつ振りだろうか。下手をすると、かなり幼少の頃まで記憶を遡らなければいけないかもしれない。
そんなことを考えながら、すでに足は、自然とお決まりの場所へ向かう。今日ばかりは「任務」というよりも、彼女へ別れの挨拶をするべきだという気持ちと、久方ぶりの「寂しさ」も相まって、無性に彼女の出してくれるお菓子や紅茶を飲みたいような気がしていた。
そんな時だった。
「誰か・・・・っ!!!!」
町の中央を通る太い道に出て、丁度岬のある方角へ足を向けたのと同時。
突然、左手の横道から一人の女性が駆け込んできた。30代前後で教会独特の衣服を身に纏ったその女性は、相当慌てて走ってきたのか、かなり息が上がっていたが、それに反して、顔色はやけに青ざめていた。
アデルも含め、通りを歩いていた者が皆、足を止めて、彼女に注目した。近くの店先にいた主人が顔を出して「なんだ、シスター。そんなに血相を変えて、一体どうしたんだ?」と呑気な調子で声を掛ける。
「誰か・・っ!子供が・・・!子供が、崖から落ちて・・・っ!!!/////」
「!!」
瞬間、通りが俄かにざわめいた。「子供が!?」「どうして!!」といった声が一斉に飛び交い、さざ波の様に駆け巡る。呑気な声を出していた店主も、驚きで声を失っていた。
ざわめきで満たされる通りの真ん中で、女性はひたすら「誰か」と狼狽えながら、息も苦しそうに助けを求めているのだが、動揺が独り歩きしたまま、周囲の人々はその存在が目に入らなくなってしまった様子で、近くの者と言葉を交わすことに夢中だ。
アデルは女性の傍に駆け寄ると、震えるその肩に手を置いた。
「場所は?」
その時、一瞬の躊躇もなかったことを、アデルは後々思い返す度に不思議に思うことになるのだが、この時は自分でも驚く程自然と足が前へ出ていた。
アデルの呼び掛けに驚いた様子で、しかしなんとか息を呑み込むように喉の奥へ追いやると「あ、む、向こうの・・・・」と、女性はやっと口にした。元来た道の方向を差す指先は酷く震えていて、どう見てもまともに対処が出来そうな様子ではない。アデルは、へたり込みそうになっている女性の身体を支えながら立ち上がらせる。
「そこまで案内してください。」女性は、無言で震える頭を縦に振る。
「誰か!長い頑丈なロープを!!それから、力のある男性陣は一緒に来てください!人手がいります!!!」
アデルの呼び声に、漸く事態に対処することへと頭が働き出した街の人々は、一斉に声を掛け合う。
「ロープだ!誰か、ロープを!!」
「家の裏に、頑丈なのが1本ある!」
「俺も一緒に行くぞ!」
周りの人間たちが、慌てながらも対処するために動き出したのを見ると、アデルは女性の目を見て力強く頷いてみせた。それに対して、ほんの僅かだが、女性も気を取り戻してきたのか、先程よりもはっきりとした頷きを返した。
「こっちです・・・っ!!!」
女性に続いて、アデルと町の男たちが崖の方へと駆けていく。
問題の崖は、町の中央道から横道に折れて、海側へ向かい、家や店が立ち並ぶ区画から十数m程離れた場所に建てられた教会の脇を過ぎたところにあった。
この町は一本の中央道を挟んで両側に形成されており、その更に外側には、中央道と平行した形で片側が森、そしてもう片側は一面海に面している。海に面した陸地は、一番低い位置に港があり、町から少し外れた教会の方角に向かって陸地が高くなっていた。教会を通り過ぎて、中央道を更に丘へと登った場所に位置する魔女の岬は、町の中では一番の高台になる。
教会の真裏は、リリスが暮らしている小さな家と同様に、海に面した切り立った崖となっていて、途中までは木製の杭とロープによる簡易的な囲いが施されているのだが、それは、ある一点で途切れてしまっていた。
「あそこは、去年の嵐の時に、波に呑まれて柵がもってかれちまった所じゃないか!」
「だから、早いとこ、修理しておこうと言っとったんだ!わしは!!」
男たちが声を荒げる中、アデルはすぐに崖の傍へ近寄ると、その下を見下ろす。
町の住人たちが話している波の所為かは分からないが、陸地に向かって抉れた形状になっている崖は、すぐ下まで海水が入り込んでおり、海から打ち寄せる波がその壁面へと当たっては砕け、白い小さな泡が幾つも作られていた。
その切り立った崖の途中、ギリギリ波に呑み込まれない高さに、崖から突き出た岩棚がある。その上に小さな体が横たわっているのが見えた。
裾の広がった服の形状からスカートを履いているのが分かった。髪が2つに束ねてあることが、辛うじて確認できる。女の子だ。
子供は、ピクリとも動く気配がなく、ぐったりとしているように見えた。気を失っているだけならばいいが、どこか怪我をして体を動かすことが出来ないのだとしたら、その怪我の度合いによっては、早く医者に見せなければならない。
「ロープを。」
アデルは目測で、少女までの距離が約20mだと推測すると、右隣りから同じように崖下を覗き見て、すっかり青ざめてしまっている細身の老人へ促すように手を差し出した。
老人は慌てて、手にしているロープをアデルへと手渡す。
己の腰に巻いたベルトへロープの片側を手際よく結びつけ、崖から少し離れたところに、見るからに地に深く根をはっている樹木を見留めると、その太い幹へとロープを回した。
その間、当然のことながら、このような事態に慣れているはずのない町の男たちは、戸惑いの表情を浮かべ、ただアデルのすることを見つめている。
「すみません。この木へ回したロープの反対側を持っていてください。これから、俺が下へ降りるので、ゆっくりとロープを降ろしていってくれますか。」
アデルがそう声を掛けると、男たちは慌てて駆け出し、こわごわとした手つきでロープを握りしめた。皆一様に、今まさに、あの切り立った断崖絶壁へ降りていこうとしている青年に不安そうな視線を送る。
「あ、あんた、本当にこんなロープ一本で大丈夫かね。わしには、その、どうにも・・・」
「頑丈なロープなんでしょう?」
先程まで、我が家のロープが一番と言わんばかりに粋がっていたはずの老人へ、確かめるようにそう声を掛けると、老人はぐっと一度口を噤み、硬い表情で静かに答えた。「・・・大丈夫だ。」「それなら、問題ない。」
あまりにもあっさりとそう言い切ったアデルの目が、確かに自分たちを信頼していることを見て取ると、男たちの表情は一気に引き締まった。
「ゆっくり!少しずつだ!!」
その声に応えるように、じりじりとロープが降ろされる。アデルはベルトから伸びるそれを両手で持ち、後ろ歩きに壁を伝いながら、目標に対して背を向けた格好で、ゆっくりと崖の下へ沈んでいく。10人ほど集まった人員のうち、力に自信のある7人が木に回ったロープの先を持ち、残り3人は、崖を降りていくアデルの様子を見ながら、ロープを降ろす男たちに声を掛けていた。
額に脂汗を浮かべながら見守る住人達に、アデルは「大丈夫だ」というように強く、何度も頷いてみせる。
「あと少しだ!!」
漸く足が岩棚に掛かるというところで、アデルはそこに横たわっているのが、つい先日、リリスがレースを納品しているという老婆の店で出会った、孤児院の少女であることに気が付いた。
(確か、エミリーと言っていたか。)
曖昧な記憶を呼び起こしながら、アデルは少女の状態を確認する。息はありそうだが、アデルが近づいて来ても目を開ける気配はなく、身じろぎ一つしない。
「足が着いたぞ!その辺で、止めてくれ!!」上から見守っていた1人がそう声を掛けると、アデルがしゃがみこめる程度の余裕をもたせて、ロープは止まった。
子供一人が横たわっているだけで、殆どいっぱいいっぱいというスペースに、慎重に足の向きを変えて、手を伸ばす。一度、その小さな口に手を当ててみるが、潮風が強く、か細い呼吸を手のひらに感じ取ることが出来ない。無理な態勢からなんとか胸に耳を当てる。そうすると、とくりとくりと幼い鼓動が鼓膜を揺らした。
(大丈夫。気を失っているだけだ。)
息を詰めて見守っている頭上の人々へ、アデルが手振りで少女に息があることを伝えると、瞬間的にわっと小さな歓声が上がる。しかし、頭上の歓声に耳を傾ける間もなく、アデルはすぐに傍ら少女の方へ向き直った。
(・・・急に動かすのは危ない。どこかにまだ怪我をしている可能性がある・・。)
アデルは、更に慎重な手つきで小さな身体に触れながら、他に異常がないか確かめる。一見したところ、大きな出血のようなものはなく、手足の小さな切り傷、掠り傷のみしか見受けられないが、打ち所が悪ければ、出血はなくとも危ないことには変わりないのだ。
「エミリー!エミリー!!」
声を掛けながら、軽く頬を叩いた。
(意識が戻り、話が出来る状態になるようであれば、一先ず安心しても大丈夫なはずだ。)
「エミリー!聞こえるか!目を開けるんだ!エミリー!!」
「・・・っ」
小さく眉を潜めるような仕草の後、少女は薄い瞼を開けた。
「エミリー!こっちを見るんだ!俺が分かるか?」
ゆらりと羽虫を追うような動きで視線を彷徨わせると、2つのヘーゼル色をした瞳は、アデルの顔の方向を見つめて止まる。虚ろな表情だが、そこにアデルがいることは認識できているようだった。
はくはくと唇が動く。声は出ていないが、その動きから、「おにいちゃん」と動いていることは読み取れた。
「そうだ。前に、リリスと一緒にいた。分かるか?」
頭が小さく上下する。それが了承の頷きととると、アデルはホッと胸を撫で下ろした。
これならば、大丈夫そうだ。そう判断して、少女の身体を起き上がらせようと、幼い背中に腕を回した。
「・・・わた、し・・っごほっ、ごほっごぼっ!」
「!!」
しゃべろうとして咽た瞬間、ドロリと、どす黒い液体が少女の小さな口から溢れ出る。
血だ。
(内臓が、やられている・・・・!)
「誰か!医者を呼んできてくれ!!すぐに治療が必要だ!」
頭上へ声を掛けると、見下ろしていた者のうち、若い1人が慌てて走って行ったのが見えた。エミリーの身体を胸の前に抱き上げ、もう一度声を掛ける。
「ロープを引き上げてくれ!」
降りてきた時とは逆に、今度は壁面を歩いて登るように足を掛けながら引き上げられる。
横抱きにした少女の身体は、あまり体勢を変えないように、ピンと張ったロープと己の胸の間に置き、左腕で頭の後ろを支えた。右手はロープを握りしめ、揺らさぬよう微妙な姿勢を保ちながら、引き上げられる速度に合わせて、足を前へと繰り出す。
その間にも、エミリーは苦しそうにぜいぜいと喉を鳴らしながら、時折、血を吐き出していた。
2人が崖の上に近づくにつれ、その様子が鮮明に見えて来たのか、目に涙を溜めたシスターが真っ青な顔で口元を押さえている。いつの間にか、ギャラリーが増えていた。
教会の他のシスターたち、同じ孤児院の子供たち。町の人々も、周囲を取り巻いている。
手の届く範囲まで上がってきてから、上にいた者に、先に少女の身体を預けた。
続いて、アデルも崖の上に上がる。
「エミリー・・!!」
「大変だ、こりゃ・・・。」
地面に横たえられたエミリーの様子は、痛々しいものだった。
ワンピースの胸元は、吐き出した血溜まりで真っ赤に染まっており、駆け寄ったシスターは泣きながら、鮮やかな胸元とは対照的に、どんどん色を無くしていく小さな手を握りしめて、何度も名前を呼ぶ。
「医者は?」
「今、呼んできとる。」
「おーーーい!!」
医者を呼びに行った若者が駆け戻ってきた。周囲の者は皆道を開け、彼を先へ通すが、何故か彼1人のみで、他に誰かを連れて来た様子はない。
「おい、先生はどうした!」
「それが、今日は朝から、隣り街まで行っちまってるって・・・!!」
「なんだとっ!?」
息を呑むような音が、周囲から聞こえた。シスターは声を詰まらせながら、「そんな・・っ」と信じられないような様子で、絶望の表情を浮かべる。
軍の訓練の延長で得たような応急処置の知識しか持たないアデルには、流石にここまでの重傷者を助ける術はない。
真っ青で、呼吸も浅い少女の様子に、アデルも暗い面持ちを隠すことが出来なかった。
「リリスちゃんのところへ運びましょう。」
突然、落ち着いた、しかしはっきりとした声が、人の間を割って飛び込んだ。
ざわついていた群衆は、一瞬で静かになり、声の元となった人物が、少女の傍にしゃがみこんでいるアデルの目の前に立つ。同じようにその場に屈み込むと、優しい皺の刻まれた手で冷や汗の滲む小さな額を撫でた。
「アデルさん。エミリーちゃんを、岬まで運んでくれるかしら。」
「しかし、内臓がやられています。薬草などでは、とても・・・」
戸惑いの表情を浮かべるアデルに、マルグリットは有無を言わせず「お願い。」とそう一言告げた。他の者へ視線を向けるが、何故なのか、皆、一様にむっつりと黙り込んでおり、彼女の提案を否定する者もいない。こうしている間にも、足下の少女の容態はどんどん悪くなっていく一方だ。
アデルは、少女を横抱きに抱え上げた。
岬への道を、マルグリットとシスター、数人の町の人々がアデルと共に登っていく。
医者を呼びに走ったのと同じ青年が、先に行って事態を伝えてくると魔女の岬まで駆けていった。
聞きたいことは、山のようにあった。医者ではなく、何故リリスなのか。今は町の医者が不在だとはいえ、その次に上がる選択肢が、町はずれで薬草を煎じた薬を作っている少女というのは、どうも納得がいかない。リリスは、薬草を扱っているというその特異性からか、一般人よりは怪我や病に関する知識があるようではあった。この町では、医者を除いて、リリスよりもそういった知識に長けた者がいないのかもしれない。それでも、すぐにでも手術が必要と思われる患者を運び込むのに、最適な場所とは思えない。
(しかし、誰も・・・)
そう、誰もその意見に否を唱えることはなかった。ここにいる誰もが、リリスのもとへ連れていくという選択肢が、今の最善策であると納得しているようなのだ。
そして、何よりも異様だったのは、町の人々の反応だった。
(何故、誰も何も言わない・・・)
魔女の岬へ向かうと決まってから、人々は急に口を閉ざした。反対する者はいないが、それでも、こうすることが本当にいいのか迷っている様子で、何故か時折、アデルの方を気にしている。
自身へ向けられる視線に気づきながらも、アデルは周りに従うように黙々と歩みを進めた。
小屋が見えてくる。
「エミリーちゃん・・・っ!!」
門の傍まで来ると、慌てた様子でリリスが家の中から飛び出してきた。
それに続いて、先に駆けていった青年が、タオルやお湯の入った器などを抱えて出てくる。
駆け寄ってきたリリスは、もう、いつ息が止まってもおかしくない状態のエミリーを見て、深刻な表情で、きゅっと唇の端を噛んだ。
「内臓が傷ついている。一刻も早く手術をしないと、この子は助からない。」
それまでエミリーへと向けられていた視線が、アデルの表情を伺う。いつもの澄んだ色をした瞳が、不安で揺れていることに、アデルは内心で驚いた。ここへ来てから今日まで、そんな顔をした彼女を見たことがなかったからだ。
「リリス・・・?」
リリスは不安の色を隠すように、一度瞼を閉じると、何かを決意したのか、次に開けた時には、いつもの澄んだ表情に戻っていた。
「・・・リリスちゃん。」
マルグリットが、彼女の肩に優しく手を置く。それは、彼女に「大丈夫だ」とそう言っているようで。しかし、マルグリットがそうする意味が、アデルには、何一つ分からなかった。
その様子を周りで見ている人々も、不安を隠せない表情で、成り行きを見守っている。
アデルは、この中で自分だけが現在の正しい状況を把握できていないことに、妙な居心地の悪さを感じていた。
「アデルさん、エミリーちゃんをそこのチューリップ畑の近くに降ろしてください。」
「え?」
「急いでください。時間がありません。」
ここまで来たのは、エミリーを治療するためだ。これから、リリスがそれをするのだということは分かるが、何故、わざわざ地面の上に患者を横たえるのか分からない。だが、時間がないことは確かで、冗談で言っていることではないのは、空気を読む能力に長けた者でなくても分かる。
その言葉に素直に従い、アデルは赤や黄色の花をつけ、ピンと伸びやかに咲いている花たちのすぐ傍にエミリーの身体を横たえた。
「ごほっ、ごほっ・・・・」
口端から溢れる血液を、お湯で絞ったタオルで拭う。エミリーの顔色は、最早生きているのが不思議な程真っ青になっていた。
「もう少しだけ、頑張ってね、エミリーちゃん。すぐに苦しくなくなるから。」
優しくかけられる言葉は、まるでこれから静かに息を止めるかのような響きを孕んでいて、アデルは途端に不安になる。もしかすると、彼女はここでこの少女の命の鼓動を止めるつもりなのではないかと。
「リリ、ス・・・」
思わず、声を掛けようとしたところで、背後に立っていたマルグリットが、掌をアデルの左肩に乗せて、やんわりと押し止める。
自分でもどうしたかったのか分からない、無意識に上がっていた右手を、アデルはゆっくりと降ろした。
そのまま、他の者と同じように、息を殺してリリスの動向を見守る。
リリスは、精神を集中するように深く呼吸した。そして、一度胸の高さへ上げた両手を、静かに降ろしていく。それはまるで、そこにある空気の存在を確かめるような、酷く重たい動きだった。左手はエミリーの腹の上に。右手は、チューリップ畑のすぐ下の地面の上に置かれた。
(何を、しているんだ・・・?)
アデルは、その不可解な行動に眉を顰める。治療と呼ぶには、あまりにも静かで、だが、何か不思議と、神聖で厳かな空気が漂っていた。
――-----------―――ンッ――――
(なんだ?・・・・耳鳴り?)
不意に、不思議な音が聞こえてきた。鼓膜の奥で鳴る高い音。ピンともリンともつかない、脳に直接聴こえているかのような音に、アデルは周囲を見渡す。
辺りの景色に変化はない。見守る人々も、少女の回復を祈って、胸の前で手を組むシスターも、誰も様子が変わったところはなかった。
そして、アデルは視線をすぐ目の前のリリスへと戻して、ハッとする。
リリスの周りが、ほんのりと明るくなっていた。地面から、いや、彼女自身から強い熱量を感じる。リリスの淡い紅茶色の髪が、たゆたうように宙に浮きあがっていた。
(風・・ではない。)
まるで、身体から発せられる蒸気に煽られて、浮かび上がっているようだ。
何が起こっているのか、理解に頭が追い付かない。
エミリーと地面に当てられた彼女の掌から、何か想像もつかないようなエネルギーが発生している。肌に感じられる熱と、目に見えるあたたかな光の存在は、有り得ないと、頭では分かっていても、とても否定できるようなものではなく、何か、とんでもないことが起きているという、ただそれだけが理解できた。
そして、アデルは死の淵に立たされていたはずの少女の変化に気が付く。
(傷が・・・治っていく・・!)
手足や頬にあった掠り傷は徐々に塞がっていき、元通りの滑らかさを取り戻していた。少女の顔に、血の巡る色が差す。紫色に変色していた唇が、赤い紅を落としたように色づいたと思った時には、全てが終わっていた。
気が付くと、リリスの身体から放たれていた熱も光も、なくなっている。先程まで、ピンと背を伸ばし咲いていたチューリップの花が、何故か全て力なく頭を垂れ、枯れ果ててしまっていた。
エミリーが、そおっと、息を吐き出した。その呼吸は、つい先程までの息苦しさを全く感じさせず、喉を塞いでいた血液はどこへいったのか、深い、安らかな呼吸を繰り返していた。胸が緩やかに上下する。
アデルは、目の前で起こったことが信じられずに、ただ、回復したと思われる少女の姿を見つめていた。
「もう、大丈夫です。」
額に汗の滲む顔で、リリスは微笑みながら振り返る。途端に、息を詰めて見守っていた周りの者たちは皆、安堵の息を吐き出し、よかったよかったと口々に言い合った。
「ああ、よかったっ・・・本当にっ///」シスターが、もう体中の水分を使い果たしたのではないかと思うくらい泣いた後だというのに、更に頬を湿らせながら、幼い身体を抱きしめる。目を覚ましてはいないが、少女が穏やかな表情でいるところを見ると、もう、危険な状態でないことは、一目瞭然だった。
「まだ、体力は回復していないと思うので、帰ったら、ゆっくり休ませてあげて下さい。」
「ええ、ありがとうっ、リリスちゃん///」
周りの人間たちが、各々、町の方へ帰り始めた頃になって、アデルは、漸く金縛り状態から、気を取り戻した。慌てて、リリスに声を掛けようと立ち上がる。
「リリ、」
「あ、わ、私はこれを片付けないといけないので、これで・・っ」
「リリス・・!」
伸ばした手の先を肩が掠めた。アデルとは目も合わせず、家から持ち出してきたタオルなどを抱えて、俯きがちに走り去るリリスの背中を、また呆然と見送る。
いや、呆然と見送っている場合ではない。聞かなければいけないことがあった。
「アデルさん。」
後を追おうと足を上げかけたところで、背後から呼び止められ、アデルの右足は再び元の位置に戻される。振り返ると、マルグリットがじっとアデルを見つめていた。曲がった背筋を少しだけ伸ばしたその立ち姿には、毅然とした態度が感じられる。すでに、他の者は丘を下って行ってしまい、今はもう、マルグリット1人が残るのみだ。
「私はね、貴方を買っているの。」
「貴方がどうしてこんな小さな田舎町までやって来たのか。それは、リリスちゃんの・・・貴方も見た、先程の現象が関係しているのではない?」
「・・・・。」
「答えられないことなら、これ以上聞かないわ。きっと、何か大切な事情があっての事なのでしょう。」
マルグリットの言葉は、ゆったりとしていながら、淀みなかった。否定の言葉を挟む余地はない。
「・・・・そう思いながら、どうして俺が彼女に近づくのを許したのですか。今日の事で、貴方が俺を彼女の元へ連れて来なければ、俺は何も知らないまま、明日には、ここを去ることになっていたのに。」
アデルはもう、取り繕うことはしなかった。今それをすることに、何の意味もないということが、はっきりしていたからだ。
マルグリットは眉根を下げ、毅然とした表情から一転、寂しそうな瞳で笑う。
「あの子はね、とても優しい子よ。アデルさん。優しくて、そして、とても悲しい子。
貴方が、あの子に連れられて私の店に現れた時、私、“ああ、この人だ”って。“この人が、リリスちゃんを箱庭の外に連れ出してくれる人なんだ”って、そう確かに感じたの。
・・・・貴方は幾つか嘘をついていた。事情は何も分からないわ。でもね、アデルさん。その人の心の有り様は、誰にも隠せないわ。貴方がどんな心の持ち主であるかということだけは、決して隠せるものではないのよ。」
そこまでを一息に吐き出すと、マルグリットは眩しさに目を細めるような顔をした。
「貴方のお祖父さんが、ブラウンさんのお知り合いだという話。私、信じたいと思ったのよ。貴方のことを・・・信じようって思ったの。」
アデルは、丘を下る道の向こう側に見えなくなるまで、マルグリットの小さな背中を見送っていた。
そして、それが完全に見えなくなってしまうと、目の前の小さな家に、改めて向き直る。
確かめなければいけないことがあった。少女を助けた不思議な力。枯れてしまったチューリップ。彼女が、自分の探していた人物なのか。
家の木戸に手を掛けると、それは何の抵抗もなく、年代物の軋んだ音を立てて開いた。
室内は、今が丁度、日が窓から入らない角度に昇っているためか、薄暗い。
家の中に入って、すぐ右手側に置かれた長方形のテーブルの、アデルから対角の位置にある椅子に、入口から背を向けた形で座っているリリスがいた。俯いたその手には、片付けなければと慌てて持って行ったはずの、血で汚れたタオルが握られたままになっている。
「・・・片付けなくていいのか?」
細い肩が、ピクリと揺れた。しかし、彼女は顔を上げない。
聞きたいことは沢山あったが、そのどれも、上手く切り出す言葉を見つけられずに、アデルは、気まずい空気に耐え切れず、なんでもいいからと場を繋ぐ言葉を探す。
「・・血は、時間が経つと落ちにくくなる。早めに洗ったほうがいい。」
言いながら、自分の服も、エミリーの吐き出した血でべっとりと汚れてしまっていることに気がついた。
「・・・・・・す・・・。」
「え?」
「・・・騙すつもりじゃ、なかったんです。」
リリスの声は小さかった。
俯いたまま、表情は見えない。だが、何かを真剣に、必死に伝えようとしていることだけは分かった。
その声を聞いて、アデルも、自分が聞かねばならないことと、向き合う覚悟を決めた。
「さっきの、その、・・力は?」
「・・・・小さい頃から・・私には、不思議な力がありました。この力を、なんと呼んでいいのか、私にも分かりません。この掌で触れたモノの生命エネルギーを奪い取って、それを別のモノへ分け与える力。」
枯れていた庭のチューリップの姿を思い出す。
チューリップの生命エネルギーが、リリスの身体を媒介として、エミリーの傷を癒した。彼女の言っていることは、そういうことだ。
似たようなことを、彼女は以前、薬草を作ることについて言っていた。
「前に話していた、薬草の話は・・・」
「そのお話は、嘘ではありません。薬草作りは、何も特別な力は使っていません。植物の持つ生命エネルギーを、人が取り込みやすい形にしているだけ。私の力は・・・・それをちょっと強引な形で出来る・・・というだけ・です・。」
”それだけ”という言い方をする割には、リリスはどこか自分のその力を恐れているように見えた。ぎゅっと、強く自身の手を握りしめている。
「初めてアデルさんにお会いした時、・・・『君が、”魔女”と呼ばれている人物か』と聞かれました。その時お答えしたことも、嘘ではありません。この場所で、”魔女”と呼ばれていたのは、私の祖母でした。この岬の素敵な庭や、良く効く薬草を作る祖母のことを、町の皆さんは敬意と親しみを込めて”魔女”と称していました。そして、いつしかこの場所も、”魔女の岬”と呼ばれるようになっていました。」
そこまで話すと、リリスはやっと、アデルの方へ身体を向けた。振り向いたその顔は、酷く思いつめた表情をしていた。
「今日まで、アデルさんにお話したことに、嘘はありません。でも・・・・この力のことだけは、どうしてもお話することが出来ませんでした・・・。」
それはそうだろうと、アデルは思う。彼に、リリスを責める気持ちは全くなかった。
今になって、魔女の岬へ行くことになった時の、町の人々の視線の意味が分かる。リリスのあの特別な力の存在が、外部の人間に漏れてしまうことが、どんなに危険なことか、それは想像に難くない。下手な人間にバレてしまったら、噂は瞬く間に広がっていき、その力を悪用しようという人間が必ず現れる。そしてそれは、リリスの身が危険に晒されるのと同義だ。
『私はね、貴方を買っているの。』
マルグリットは、アデルを信用したからこそ、この場に彼を連れてきた。そして、彼女の信頼を感じ取ったからこそ、戸惑いながらも、町の住人たちは、何も言葉を挟まず、マルグリットの意見に従った。
(リリスが今まで、何事もなく暮らしていられたのは、この町の人達が、こうして彼女を守っていたからだ。)
アデルは、その住人たちが築き上げてきたものを、今、自分は壊そうとしているのではないかと、瞬間、躊躇する。
自分のここまで来た目的を、使命を、忘れたわけではない。それが、いかに重要なことかも分かっている。しかしアデルの唇は、それを、口にすることを躊躇っていた。
「・・・・私の力、驚きましたよね・・。」
「・・・・。」
「あの、私・・・っ!」
リリスは、泣き出しそうな顔でアデルを見る。しかし、大きく一度息を吸うと、また顔を俯かせてしまった。
そして、震える声で、言った。
「私は、・・・アデルさんの考えているような、怖い魔女じゃ、っ・・・ありませんっ・・」
膝の上に乗せられた手が、細かく震えていた。
そこでやっと、アデルは自分が大きな思い違いをしていたことに気が付く。
リリスは、アデルに力の事を告げず、彼を騙すような真似をしたことを、気にしているのではなかった。彼女は最初からずっと、魔女の岬に住んでいる“魔女”の存在を気に掛けていたアデルに、怖がられ、嫌われてしまうことを恐れていたのだ。
そのことに気が付くと、アデルの口元は、自然とほどけた。思わず、笑い声が漏れてしまいそうな程、急激に気持ちが軽くなって、今まで纏わりついていた緊張の糸がほろほろと緩んでいくのを感じる。
目を伏せたまま、アデルからの言葉を恐々と待っているリリスの姿に、緩んだ口の先から、思わずため息が出た。その音にすら、ビクリと反応する縮こまった肩が可笑しかった。
確かにアデルは、彼女が魔女なのではないかと疑っていた。しかし、それはあくまでも、任務のために、そうであるか否かを見極めなければならなかったからだ。
そもそも、魔女と呼ばれる者が、一体どういった人間なのか、彼には全く想像もつかない未知の存在だった。だから、彼女が何かをする、そのことある毎に、様々な可能性を考えて、通常よりも余分に警戒していたところがあった。
彼女はずっと、アデルが魔女の存在を気に掛けていること、そして、それを恐れていることが分かっていて、まさか、自分にこんな力があるなどとは、言うことが出来なかったのだ。
(しかし、力を知られることを心配するのではなくて、それを知られることで、俺に怖がられることを気にするなんて・・・。)
アデルは、彼女の様子を伺っていた今日までの数日間で、拍子抜けするような思いを何度もしてきた。そしてもう、十分すぎるほど分かっていた。
この少女が、人に危害を加えるようなことなど、するはずがないのだと。
「・・・俺も、君に話していないことがある。」
「・・・?」
リリスの顔が上がる。不安に揺れる瞳が、アデルの心を推し量ろうとしていた。
アデルも、もう彼女に全てを話すことに躊躇いはなかった
「俺がこの町へ来たのは、噂の真意を確かめるためだ。」
「・・・噂・?」
「人伝てに・・・それも、酷く曖昧で不確かな情報で、ただ、『どんな病でも治す魔女がいる』と・・・そう聞いて、噂の元を探り、辿り着いたのがこの場所だった。」
「!」
「安心していい。恐らく、俺が聞いた噂は、君のお祖母さんのことだ。人によって伝聞の内容に差はあったが、誰も君ほどの特別な力の存在を臭わせることは言わなかった。
・・・ただ、どのようにして治すのかという部分について、詳細を語る者がいなかったから、俺にも想像がつかなかった。“魔女”という呼び名に、怪しい呪いのようなものを想像していたことも確かだ。それで君を不安にさせてしまったことは、謝る。すまなかった。」
何を謝られているのか呑み込めないまま、リリスは「いえ・・。」と小さく答えた。そして、おずおずと尋ねる。
「あの、どうして・・・アデルさんは、その噂を探っていたんですか・・?」
当然と言えば、当然の質問だろう。アデルは一呼吸置くと、言葉を待っているリリスの視線を感じながら、一歩ずつ、長方形のテーブルを回るように足を進めた。そして、リリスのいる方へ近づいていく。
「ここで、魔女と呼ばれている人物が、どのような人物か、そして、どのような能力を持っている者なのか、それを実際に会って確かめ、見極めなければならなかった。」
「見極める・・?」
「その人物が、我が国に、必要な人材であるのかを。」
「アデルさ、・・・」
アデルは、リリスの目の間で立ち止まり、座っている彼女の目線に合わせるように、片膝をついた。
突然のアデルの行動に、リリスの目が驚きで見開かれる。
「俺は、ガーデンハート国、国軍少佐。アデル・ガーランド。
リリス・ブラウン。君に、俺と共に、我がガーデンハート国に来てもらいたい。」
To be continued....
No.520|Garden|Comment(0)|Trackback
2015/06/25(Thu)20:11
宿屋の女主人は、庭へ洗濯物を干し終え、店先に心ばかり置いてある鉢植えへ水をやると、窓辺に寄り、目覚め始めた街の喧騒に耳を傾けていた。
あまり行儀の良い食べ方とは言えないが、息子が焼いた自家製パンの売れ残りを一口サイズにちぎりながら紅茶に浸して味わう。
大方、朝の家事仕事を終えてしまった彼女が、一息吐ける何でもない朝のひと時。
向かいの酒屋は、まだ開かない。主人よりも先に姿を現したのは、そこで飼われている老犬で、よたよたと覚束ない足取りで出てきては店先に座り、のんびりと大きな欠伸をしているのが見えた。
(お向かいのジョンも、もう歳ねぇ・・・。)
向いの主人は、飼い犬が亡くなる度に新しい犬を飼っているが、今、自分の目の前で呑気な姿を見せているのは、ジョンだったか、はたまた、マイケルだったかしらと、他愛もないことに思いを馳せる。そんな、贅沢な時間の使い方が出来るということが、何よりも幸せだ。
そうして、彼女が朝靄の引いていくのをのんびりと眺めていると、突然、頭上から慌ただしい音楽が降ってきた。
ドッ、ドカッ!バタンッ!ドタッドッ、
ドッタッタッタッタッタッ・・・!!
慌てた調子っぱずれの足音に驚いて背後の階段へ目を向けると、丁度、足音の主である宿泊客の青年が、階下にその顔を覗かせたところだった。
酷く動揺した様子の青年の、いつもならばきっちりと整えられているはずの髪は、正に起き抜けのそれで、頭上の毛が見事に跳ね上がっている。
「おはよう、ガーランドさん。今朝は、よく眠れた?」
「お、おはようございます。はい。その・・・思いの他、深く寝入ってしまったようで・・あの、朝食の時間に間に合わず、申し訳ありません・・;;;」
何をそんなに慌てているのかと思えば、どうやら彼は、今朝の朝食に乗り遅れてしまったことを気にしているらしい。
確かに、ここへ泊りに来てから今日まで、彼が朝食の時間に遅れたことはなかった。とは言っても、ここでの朝食に、元々時間の縛りなどは存在しない。何せ、自分と息子と、極たまに利用する宿泊客の3人分だ。簡単な物ならば、いつでも出せる用意はあるし(もとより、こんな田舎街唯一の宿屋に、質の高い食事を求めるような客はいない)、何より、自分たち親子の起床時間は早く、朝食は基本的に6時とかなり早朝になる。
大抵の宿泊客は、昼の少し前にのんびり起きて来て、ほとんど昼食に近い朝食を、これまたゆったりととってから、街へ出掛けていく。実際、早起きをしてまで、観るようなところもない街だ。
宿泊初日から、自分たち親子と同じような時間帯に起きて来て、一緒に朝食をとる彼のような客人の方が珍しいのだが、どうやら、決まりとでも思っていたのか、片づけ等の手間を気にしてくれているようだ。
女主人は腰を落ち着けていた丸い座面の木イスから立ち上がると、律儀な青年の、見事に1段飛ばしで掛け違えているシャツのボタンを直してやった。
青年は、明らかに焦った顔をするが、そこは年季の入った女性だ。うむを言わせず、慣れた手つきで全てのボタンを正してやると、「はい、出来上がり。」とその胸を叩く。
「さ、顔を洗って、その跳ねっかえった頭を整えてきなさいな。その間に、あたしは朝食の準備をしておきますからね。」
指摘されて初めて気が付いたのか、青年は慌てて自分の頭を押さえた。
「あ、はいっ、 あ、いえ、その、あ、ありがとうございます;」
では、失礼して。などと言い置いて、来た時と同様、足早に階段を上がっていく。
その背を見送りながら、女主人は口元へ手を当てクスリッと微笑んだ。
初めてここへ来たときには、若いのに随分としっかりした人が来たものだと思っていたが、どうやらあれは気を張っていたのに違いない。こうして見れば、まだまだ幼さの残る、どこにでもいるような若者だ。
「さてと、私は朝食の用意をしましょうかねぇ。」
女主人は、調理台の上へ置いていたエプロンを手に取ると、手際よく腰に巻き付けた。
あれは、魔術の類に違いない。
アデルは、本日何度目かの考えを、再度、心の中で呟く。
普段より少し遅めの(といっても、十分に早い時間なのだが)朝食をとり、女主人に笑顔で見送られながら宿屋を後にした彼は、昨日までとは比べ物にならないくらい明るい顔色ながら、完全に疑心で満ちた表情をしていた。
魔女の岬へ向かう足取りは重く、しかし、任務とはいえ、ほぼ日課になってしまったその道程は身体に染みついており、勝手に目的地へと向かっていく。
(とうとう、正体を現したか。最近は、俺も心を許し過ぎている気がしていたが、どうやらそれは、向こうも同じだったようだな・・・。)
完全に不穏な空気を纏っているアデルに、活動を始めた街の住人たちが不審な目を向けているが、今の彼にはそんな視線を気にしているような余裕はなかった。
ここ世界の端に位置するネリネ国の更に端、ラントへ来て5日目。
彼は、とうとう敵(?)の尻尾を掴んだとばかりの勢いで、緩やかな丘陵地の道を上っていく。
目的地の岬へ着くと、身構えるようにして一度立ち止まり、それから勢いよく鉄門を押し開けた。
その動きが少々荒っぽかったからだろうか、アデルが声を掛ける前に小さな家の裏から顔を覗かせた少女は、ワンピースの上からエプロンを腰に巻いたスタイルで、洗濯物を手に明るく出迎える。
「いらっしゃい、アデルさん。」
その悪意の欠片も感じられない様子に、一瞬揺らぎそうになった気持ちを引き締め、アデルは強い口調で返した。
「リリス!今日は、君に聞きたいことが・・・!」
「昨夜は、よく眠れましたか?」
アデルが言い終える前に、リリスの言葉が被さる。気が付けば、洗濯物の白いリネンを左腕にかけて、アデルのすぐ目の前にまで迫ってきていた。その表情は真剣で、初めて会った時、頭を強く打ち付けた彼を気遣っていた時と同じ瞳をしている。
そのあまりの迫力に、いつの間にか、アデルは相手へ掛けようとしていた言葉を手放していた。
しばらく、アデルの顔色を伺っていたリリスは、そこに陰りが見えないことを確認すると、また元通りの明るい笑顔に戻り、安心した様子で告げる。
「どうやら、よく眠れたみたいで、よかったです。」
その言葉に、弾かれるようにしてアデルは口を開いた。
「やはり、昨日のあのカモミールティーという飲み物に、何か、まじないを掛けていたのか・・・!」
昨日、アデルはリリスに促されるがまま、魔女の岬に戻ると、彼女の入れたカモミールティーと、シスターからお裾分けされたというフィナンシェなるお菓子を食べた。
自分は、任務のためにこうして彼女のもとへ通っているのに、いつの間にやら、茶飲み友達のような扱いになってはいないかと、何度も頭の中で己のしていることへの正当性を問い正していたりしたのだが、そんな彼の胸中など知らないリリスが、ウキウキとした様子でお茶の準備を始めてしまったので、アデルにそれを断るような大した理由があるはずもなく、ここ数日の通り、それらを頂くことにした。
そこまでは、よかった。
異変が起こったのは、その日、早々にリリスと別れ、1人宿屋へと戻るその道程だ。常にないくらいの壮大な睡魔がアデルを襲った。
この睡魔とやらを実体化したならば、相当に禍々しい魔物が現れるに違いない。それ程の眠気に、アデルは疑問を感じつつ、宿屋まではなんとか辿り着くことが出来た。そこから先、自分が一体、宿屋の女主人に何と言って声を掛けたのかもおぼろげで、気が付くと彼は、着の身着のまま部屋のベッドの上に横になり、ここ数日分の睡眠を取り戻すが如く、深い眠りについていた。
そして、状況は冒頭へと戻る。
ハッとして目覚めたアデルは、しばらく、己の置かれた状況が理解出来なかった。服装は昨日のまま、何もせずにそのまま横になり、そういえば、夕食はどうしたのだったか。それすらも、思い出せない。
窓から差し込む日差しの明るさと、部屋の片隅に何とはなしに置かれている、インテリア性からは程遠い素朴な木の置き時計に目をやって、そこで漸く、彼は勢いよく起き上がった。
勢いのまま、ベッドから転げ落ちそうになったところを、なんとか鍛え上げられた脚力で踏み止まり、そのまま部屋から飛び出しそうになってから、いや、まずは服を着替えなければとシャツのボタンに手を掛けて、それを一つ一つ外しながらベッドの方へと引き返す。しかし、そこでフと、着替える云々以前に、一度、宿屋の女主人には、朝食に遅れてしまったことを詫びなければと思い立ち、慌てて脱ぎ掛けたシャツのボタンを再び留め直して、階下へと駆け降りた。
彼が女主人に指摘されて、漸くボロボロな己の姿を顧みる余裕が出て来た時には、アデルは、部屋の片隅に備え付けられた小さな洗面台の前に茫然とした表情で突っ立っていた。
鏡に映る自分の顔色は、昨晩よく眠れたためか、明らかに晴れ晴れとしており、昨日まで見ていた悪夢が嘘のように、眠っていた間、夢を見たような記憶は1ミリもない。
顔を洗って、服を脱ぎ、タオルで身体を拭いながら、彼はゆっくりと一つの考えに至る。
(あの飲み物に何らかの薬を盛られたに違いない・・・っ!!)
もしくは、魔術の類に違いない。
昨日は、すぐに帰ったからよかったものの、あのまま居座っていたら、自分は一体どうなっていたのだろうか。初めてリリスのもとを訪ねた時以来の恐ろしい想像をしてしまい、アデルは小さく身震いした。
所詮はただの少女だと思い込み、どこかで気を許してしまっていたのが敗因だ。
(俺は、もう少しで、あの子に食べられるところだったのかもしれない・・・)
やはり、あそこに住んでいる人間は、見た目こそ何の悪意もなさそうに見せておきながら、それはそれは恐ろしい魔女だったのだ。
そこまでの経緯をアデルが全て話し終えた時には、彼は何故か家の裏の小さなベンチに腰かけていた。
恐ろしい魔女だと、そう訴えられたはずの当人は、目の前で呑気にも洗濯物を干している。
ここまでのことを彼なりに、かなり真剣に伝えたつもりだったのだが、どうやらそれは、彼女に全くダメージを与えていないらしい。
それどころか、彼女はアデルの話を聞く間、どこか楽しそうですらあった。
初めて出会った絵本の中の物語を聞くような、そんなわくわくとした表情で、彼女が話の先を促すものだから、いつの間にか、アデル自身も必要以上に力説していたような気がしないでもない。
彼女を糾弾するくらいのつもりで、ここまできたはずだったのが、いつの間にか、魔女に襲われそうになった哀れな青年の物語の語り部になっていたような気分だ。
洗濯物を干し終えたリリスが、空になった洗濯籠を両手で抱えて、家の方へと戻ってくる。
「そういえば、この間買ったリンゴを使って、アップルパイを作ってみたんです。
おやつにするには少し早いですが、お天気も良いことですし、
折角なので、このベンチで一緒に食べませんか?」
裏口の戸に手を掛けながら、そんなのどかな提案をされてしまえば、先程の話を一通り語り終え、毒気を抜かれきってしまったアデルは、「・・・そうだな。」などというおかしな返事を返すのが精一杯だった。
「ちょっと、待っていてください。」と言い置いて、リリスは籠を手に家の中へ消えていく。
アデルは肩透かしをくらったような気分で、しかし、これで彼女が本当に正体を現して襲い掛かってきた時はどうしようかなどと考えていたことからすると、幾分か安堵も交えて、小さく息を吐いた。
しばらくすると、フルーツのイラストで淵を彩られた大皿に、8等分に切り分けられたふっくらと大きなアップルパイを載せて、リリスが裏口から現れる。
両手で捧げ持つようにして出てくると、ベンチの右端に腰掛けているアデルの左隣りにその皿を置き、またパタパタと家の中へ戻っていった。
アップルパイから立ち上る豊かな香りに、美味しそうだとどこか他人事のように考える。アデルも、こののどかな空気に包まれて、先程までの己の激情が嘘のように静まっているのを感じる。話を全面的に聞き流されてしまったような気がしないでもないが、それならそれでいいという気すらしてきていた。
緑色に塗られた味のある木のベンチは、家の裏の物干し場とその更に奥に広がる大海が見渡せる位置にある。屋根の下にあるため、程よく日差しを防げるその場所は、海からの潮風も心地よく、のんびりとアフターヌーンティーを楽しむには、絶好の場所だ。
「お待たせしました!」
両側に金の持ち手が付いたトレーにケーキ用のフォークとティーポット、カップ&ソーサーを乗せて、リリスはアデルの丁度反対側に腰掛ける。
2人の間、アップルパイの隣にポットやカップを置き、テキパキと慣れた手つきでリリスが小皿に取り分ける様を、勝手の分からないアデルは手を出すことも出来ずに眺めていた。「はい、アデルさん。」と差し出されてしまえば、「ありがとう・・・」と返す以外に言葉もなく、また、やはりここまできて断ることも出来ずに、受け取るしかなかった。
「・・・また、変わった香りだな。」
受け取った紅茶を鼻先へ近づけてアデルがそう口にすると、リリスはにこにこと嬉しそうに「今日は、アールグレイにしてみました。」と答える。
もちろん、アデルの辞書にアールグレイなんて名前の飲み物は載っていないのだが、昨日の今日で、そこを敢えて聞くのもなんだか空恐ろしく、だからといって、このまま飲むのもやはり恐ろしい。気を削がれたからといって、昨日のことを忘れられたわけではない。
神妙な面持ちで、紅茶に口をつけあぐねていると、アップルパイを挟んだ左隣りから「フフフ」と小さな声が漏れ聞こえた。
「アールグレイなら、眠くなったりはしないと思いますよ。」
リリスの言葉に、アデルは顔を上げ、「じゃあ、昨日のはやはり・・・」と瞬時に顔色を青ざめさせる。そんな彼を面白がって、リリスは一度声のトーンを落とすと「そう、実は、闇の魔法を使ってアデルさんを・・・・」と言いかけて、面白くなってしまったのか「ウフフ」と笑い声を挟むと、「冗談です。」と白状した。
「昨日、アデルさんにお出ししたのは”カモミールティー”と言って、ハーブティーの一種なんですが、ハーブには色々な効能があるんです。
カモミールにはリラックス効果があって、不眠症の方なんかには、とてもオススメなんですけれど・・・すみません。まさか、アデルさんにカモミールティーがそんなに効くとは思っていなかったので、驚かせてしまいました。」
「普通は、そんなことにはならないはずなんですが・・・」と、不思議そうに首を捻りつつ、「きっと、アデルさんの体質にとても合っていたんですね。」と丸く収めるように言葉を閉じる。
アデルを安心させるように、自分の手元のアールグレイをこくんと一口飲み込むと、またにっこりと微笑んで見せた。
アデルは、幾度か視線を紅茶とリリスの間で彷徨わせ、やっと、意を決したのか、それに口をつけた。
初めて口にするアールグレイは、独特の味ながら、ここに来ていつも口にする他の紅茶と同じように、淹れた者の人柄が表れているのか、とても優しい味がした。
「・・・・ハーブというのは、薬草の一種だな・・?」
「はい。あ、でも、カモミールには、アデルさんが考えているような強い効能はありません。」
「何故、俺がそう考えていると思う・・・。」
「眉間にシワが寄っています。」
怪しむように尋ねるアデルに、リリスは穏やかに対応しながら、自分の額を軽く指す。
アデルは気を静めるように、また一つ、ゆっくりと息を吐き、無意識に入ってしまった額の力を緩めた。
「『魔法のハーブティーを飲ませた恐ろしい魔女の目的は、その青年と一緒に美味しいアップルパイを食べることだったのです。』・・・・あまり面白い結末には、なりませんでしたね。」
リリスは、何故か少しばかり残念そうな様子で、アップルパイの端をフォークの先で小さく切り取り、口にした。アデルもそれに続くように、アップルパイを口へと運ぶ。つい先日街で買われていたあの丸くて赤い果実が、今では、こんなにしんなりパリッとした飴色の食べ物になっているなんて、料理のことに関しては、赤子同然の知識しか持ち合わせないアデルには、思いもよらないことだ。
(これも、魔法と言えば魔法みたいなものか・・・)
あれほど慌てた今朝の事が嘘のように凪いだ、・・・そして、半ば投げやりな気持ちで、そんなことを思いながら、アデルは目の前に広がる美しいコバルトブルーを見つめた。
本日は天候も良く、海からの風も優しい速度で海面を揺らしている。
耳へ届くさざ波の音色は、母の揺する揺り籠の様に一定の間隔を保っており、その心地良さは眠気を誘った。
「・・・アデルさんは、どうしてここへ来たんですか?」
隣りを見ると、リリスは真っ直ぐ海を見つめたままの姿勢で、膝の上の小皿にフォークを置いていた。不意にリリスから放たれた質問があまりに唐突過ぎて、アデルは、すぐにその答えを返すことが出来なかった。
初めて彼女と会った時、確かに自分は、仕事でこの街に用があって来ていると答えたはずだ。まさか、自分の偽りがバレたのだろうか。ここへ来てからの己の行動を振り返れば、バレるような要素はいくらでもあったのだが(何しろ、連日彼女の元へ訪れているのだ)、心のどこかで、彼女はそれに気付かない。もしくは、気付かないでいてくれると考えていた。
言葉を継げずに一度空いてしまった間は、どうしたって不自然になる。
アデルは思いつく限りの返答を考えては頭の中で打ち消すことを繰り返し、そして、それら全てを口にすることを諦めると、同じように海の方を見つめた。
「君は、この世界をどう思う。」
「?」
問いに対して返された問いに、今度はリリスがアデルの方を向いた。アデルは振り向かずに続ける。
「この世界は、とても狭い。人は、こんな小さな世界を国という勝手な単位に切り分けて、食い合うように争い事を起こす。そのほとんどが、同じ一続きの陸地で繋がっていながらだ。そんな必要が、一体どこにあるのだろうかと、俺は度々考える。ネリネ国は、世界の中でも端の方にあって、比較的安定した治世の国だ。この小さな街に暮らす人たちにとって、他国の人間がどんな暮らしを営んでいるのかなんて、日々を生きていくためには、きっとそれほど重要なことじゃないだろう。貿易での関わりがあるとしても、それは決して、お互いを害する関係などではないし、その必要は双方に存在しないはずなんだ。」
淡々と、しかし強い意志がこもった瞳で話すアデルの言葉は、彼の中で何度も反芻され、噛み砕かれたものなのだろう。それは一つの確信を持った音で、リリスの耳へ届いた。
「一人一人が、手を取り合うことが出来るように、世界は一つになれる可能性を持っている。俺は、そう思っている。」
穏やかな潮風が、2人の間を吹き抜けていった。
さらさらと、視界の上を流れる前髪と、その向こう側のアデルの横顔を見つめ、リリスは再び、ゆっくりとその視線を海へと戻した。
「・・・私、昔・・小さい頃ですけど、『国境』がなんなのか、分からなかったんです。」
「・・・?」
「地図の上に引かれた不思議な形の黒い線が、一体何を示しているのか、幼い頃、街の学校で先生に訊いたことがありました。先生は優しく『これは、国と国の境』だと教えてくれましたが、私は、そこには山や川といった何か物理的な物があって、それを示しているのだと思っていました。・・・なかなか理解してくれない私に、いつもは優しい先生も、とても困った顔をしていたのを覚えています。」
リリスは懐かしむように目を細める。
「私は、物心ついた時にはこの街にいて、ここから外へは出たことがありません。だから、アデルさんの感じている世界の狭さや、国同士の争いの悲しさを全て理解することは出来ません。でも・・・・」
きゅっと、膝の上に置いた両の手に力が入る。紅茶色の瞳が、海の青を反射して瞬いた。
「でも、世界の本当の姿が、何の線も引かれていないまっさらなものだとしたら、それはきっと、また元通りの形に戻ることが出来るはずです。」
「・・・・。」
「私は、そう思います。」
そう口にした彼女の瞳は、遠く海の向こうを見据えていた。
地図上に引かれた目に見えない境界に囚われることなく、眼前の海原はどこまでも遥か彼方へと続いている。
アデルは、この少女が己の探している人物であったならばと考えながら、それを口に出すことはせず、黙ってアップルパイを一欠け口へと運んだ。
「・・・すみません。私が変なことを聞いたからですよね。」
「いや、俺の方こそすまない。ちゃんと返答すべきところを誤魔化すような真似をして・・・・」
言うべきだろうか。今、彼女に。ここへ来た、本当の目的を。
アデルが硬い表情で考え込んでいると、左隣りに座った少女は「ふう」と一息、晴れやかな表情でアデルの方を振り向いた。
「ここのところ、アデルさんが毎日ここへ来てくれることが嬉しくて。アデルさんは、ここでのお仕事が終わったら、帰っていってしまうんだということを考えたら、なんだか急に寂しくなってしまいました。」
「・・・・は?」
すぐに追及や非難の言葉が返ってくるものと思っていたアデルは、思いもしない彼女の言葉に、文字通り目が点になる。
「困るだろうって分かっていたんですけれど、つい・・・こんなに寂しい気持ちになるくらい、アデルさんはどうしてここへ来てくれたりするんだろうなんて、身勝手なことを考えたりしてしまって。」照れ笑いのような表情で続ける彼女の言葉に、アデルはただただ唖然とするしかない。
「久しぶりに、お茶やお菓子を振る舞う機会が出来たのに、とても残念です。」
「そ、そうか・・・。」
てっきり、こちらの嘘が見抜かれてしまったのかと思っていたアデルは、拍子抜けして、思わずフォークを取り落しそうになった。(嘘とは言っても、仕事で来ているという点では、間違ってはいないことは確かだ)遠慮がちに寂しさを滲ませるリリスを、しばらく、黙々とアップルパイと紅茶を口にしながら観察するが、アデルの行動について、それ以上特に勘ぐっているような様子はない。先程の急な質問は、本当に寂しさから出たもののようだ。
考え過ぎて逆に大きな墓穴を掘ってしまったと、己の迂闊さにつきそうになった溜め息を紅茶と一緒に飲み込んだ。
先程の質問について、リリスの方では、大して気にしている様子はない。アデルはそれ以上、新たな墓穴を掘らないためにも、口を噤むことにした。
(・・・・仕事が終わったら、帰る。そうだ。そろそろこの任務も、この辺りで見切りをつけなければ。)
任務のタイムリミットは、確実に近づいてきていた。
To be continued....
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