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機械仕掛けのトマト

何かあったら、書いてます。いろんなことが織り混ざっているので、何でもこい!な方はどうぞ。
更新は、遅いかも。

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2024/05/06(Mon)00:05

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『Garden』 -第二章:青と白の国②-

2019/02/05(Tue)00:20

リリスは、目の前を泳ぐようにたなびくローブの動きを見ていた。
それはスローモーションで視界の端へと流れていき、襲いかかってきた青年の手の中にあったナイフが地面に突き刺さる、ザクッという音を聞いたことで、漸く魔法が解けたようになって、視界の中の世界が時間を取り戻す。

「ぐっ・・!///」
青年は、後ろに尻餅をついた。

「まったく・・・武器も持たない女性に対して刃物を振り回すなんて、物騒だなぁ。」

どこか飄々とした声でそういったローブの男の手には、片手剣が握られていた。それは、ローブの裾で手元の部分が隠れていたが、磨かれた剣先からして、張りぼてや安物などではなく、本物の刀剣であることが分かる。そして、瞬間ながら寸でのところで相手のナイフの切っ先を狙い弾き飛ばしたその手腕からして、明らかにその扱いに慣れている者のそれだった。
「くそっ!なんだ、てめぇっ!!」
「おや、人に名を聞くときは、自分から名乗るのが礼儀じゃないか?まぁ、盗人に名乗る名なんてないけどね。」
リリスは、あまりの展開にただ呆然と成り行きを見ていることしかできない。すると、今まで背中しか見せていなかった男は、不意に振り返り、ふぁさりと流れるような動作で被っていたフード部分を開けた。
途端に、輝くばかりの金糸が開けられたフードの裾からこぼれ落ちる。中央で二つに分けられた長い前髪に、低い位置で一つにまとめられた、こちらも背中まで掛かる長さの後ろ髪。垂れ目がちなエメラルドグリーンの瞳が親しげにリリスに向けられた。
リリスは、いつか読んだことのある童話の世界に描かれたエルフという森の妖精の姿を思い起こす。
「お嬢さん、お怪我はありませんか?」
実に優雅な騎士を思わせる動作は、いかにも普段からそうすることに慣れているように見えた。手を差し伸べられて、「は、はい。」と返しながら思わずそのまま自分の手を差し出しそうになったところで、リリスはハッとしてそれを引っ込める。出しかけた手を、もう片方の手で自身の胸の前にギュッと強く抱き締めるようにした。
瞬間、先ほどの自分の行動がフラッシュバックのように頭の中に明滅する。

(私は・・・あの時、何を・・・・・・)

それを考えた瞬間、胸の奥底から指先にかけて、一度は収まったはずの恐怖が再び湧き上がり、急激な震えが彼女の身体を包んだ。
突然、顔色が悪くなったリリスの姿に、ローブの男は差し出していた手を引き、案じる視線で「・・・君、大丈夫かい?」と声を掛けるが、今のリリスにはその声が聞こえていないようだった。

そして、男は次の瞬間、右手に持った片手剣をぐるりと背後へ薙ぎ払う様にして、身体ごと振り仰ぐ。
「ひっ・・!!」
そこには、先ほどの盗みを働いた青年がおり、まさに立ち上がって、どこかへ逃げ出そうとしているところだった。剣の切っ先は、青年の喉元数ミリの位置で止まっている。
「こら。君は、そこから動いちゃダメだろ?これから、この区画の警備に引き渡さなきゃいけないんだから。」
リリスからは見えなかったが、ローブの男は恐ろしいほど綺麗な微笑みを青年に向けていた。顔立ちが整った人物の冷笑ほど恐ろしいものはない。
青年は、微動だにすることもできずに冷や汗を流していた。




その頃アデルは、リリスを追って小道を右へ左へ駆け抜けていた。
周囲の店や人に、リリスが駆けていったであろう方向を聞きながら後を追うが、如何せん、スタートが遅かったので、追いつけるはずもなく、時間が経てば経つほど、二人の道行きを知っている人物はその場からいなくなっていく。
5度目くらいの聞き込みで、路地裏に居合わせたバーの主人に「さあ、そんな子が来たっけかなあ?」と返されたところで、それ以上進めなくなってしまった。
(くそっ、・・・やはり、広すぎる・・・・!)
一旦、足を止めて呼吸を整えながら、引き返して警備に尋ねる方が早いかと考えるが、事件現場である本屋でつい今しがたまで聞き込みを行っていたところから推測するに、それほど早くに事が進展しているとも思えない。とはいえ、この区切られた狭い区画の中、この空間の警備に長けた者たちであるという点では、頼るべきであるともいえる。
アデルは、盗人が捕まるかどうかよりも、リリスが途中で巻かれて盗人を見失ってしまっていることを願った。
(そうであれば、怪我をすることもない・・・)
それが、希望的観測であるということに気づきながら、気を取り直して、一先ず大通りへと引き返すことにした。このまま、複雑に折れ曲がった道の先へ宛もなく進んだところで、運良くリリスと出くわす可能性は低い。

日の当たらない路地裏を大通りへ引き返す方向に歩を進めようとすると、先程、ゴミ出しのために出てきていた開店前のバーの主人が、「あぁ、あんた。」と不意にアデルを呼び止めた。店の裏手にある見落としてしまいそうなほど小さな勝手口から顔を出している。
「あんた、さっき盗人を追っていった女の子を探してるって言ってただろ?」
「あぁ、そうだが・・・」
「今、丁度酒を納品に来た業者が言っていたんだがね。向こうで、その盗人が捕まったみたいだよ。」
「!!」

アデルは主人からその場所を聞くと、簡単に礼を言って盗人が捕まったという場所を目指した。




「はい、おまちどうさま。」
カウンター席の内側から、店主がそう声を掛けながら、カップ&ソーサーを置く。
リリスは、目の前に置かれた細かい柄の入ったティーカップを見つめた。それは、自分が普段使っているようなカップよりも、全体的に少し小さめの造りをしており、分かりやすい花や果物の絵ではなく、目の細かい幾何学模様が陶器の白地の上に青い線で描かれていた。
そっと両手で熱を確かめるようにして顔の前まで持ち上げると、ふんわりとミントの香りが鼻をくすぐる。
「・・・ミントティー。」
「お店のおすすめって書いてあったから、適当に頼んでみたけれど、もしも口に合わないようだったらすぐ変えてもらうから、遠慮なく言ってくれて構わないよ。」
「あ、いえ。ミントティー大好きです。ありがとうございます。」
そう答えて、リリスはペコリと小さく頭を下げた。

青年を警備の人間に引き渡した後、ローブの男はリリスをお茶に誘った。傍から状況だけ見ると、まるでナンパ師のようだが、急に具合の悪そうな様子を見せたリリスのことを心配して誘ってくれたのだということが分かったので、リリスはその誘いを無下に断ることはしなかった。実際、自分自身もどうしたらよいのか分からないくらい動揺していたし、どこかで一度、腰を落ち着かせる必要があると感じていた。

ローブの男は、最初の印象と違わず女性の扱いに慣れているようで、そんなリリスを労わるように、優しく声を掛けながら近場の喫茶店まで彼女を案内してくれた。
ここへ来るまでの間、男は終始、当たり障りのない話題を振ってくれていて、それは彼女の不安を少しでも和らげようと思ってのことだったのだが、喫茶店に入ってカウンター席に腰かけ、注文したミントティーが目の前に出てくるまで、実のところ、リリスの耳には男の言葉のうち3分の1も頭に入ってきてはいなかった。

ミントティーにそっと口をつける。
ミントのさわやかさが鼻を抜けて、喉の奥に吸い込まれるように温かな液体が流れ込んできた。自分が知っているミントティーよりも、少し舌の上に砂糖の甘さが残る。
椅子に腰かけたことで気持ちが落ち着いてきたのか、隣りに座る男の輪郭がゆっくりとリリスの頭の中に読み込まれていく。まるで絵本の挿絵に描かれた人物のようだ。あまりにも整った顔立ちなので、おそらくは、普段から何もしなくても自然と周りに女性が集まるような人なのだろう。と、腹の底にじんわりと染みてきたミントティーのおかげなのか、少し余裕が戻った頭の片隅で、そんなことを考えながら、ゆっくりと息をついた。
そこにきてようやく、リリスは自分がとても失礼なことをしてしまっているということに気が付いて、パッと顔を上げる。
「あのっ、色々とすみません。先ほども、危ないところを助けていただいて、本を盗ってしまった方もちゃんと、警備の方に・・・・しかも、飲み物まで、こんな・・っ!」
今まで静かだったのが嘘のように、一気にしゃべり出したリリスに、同じカウンター席の右隣りに腰かけていた男は、目をパチクリと瞬かせた。次の瞬間、フッと小さく息を漏らすように笑いを零すと、「いやあ、元気になったみたいでよかった。」といって笑った。
「あの、私ご迷惑をおかけして、ごめんなさっ・・・!」
言いかけたリリスの口先にスッと人差し指を掲げて、男は言葉を遮る。
「“すみません”も“ごめんなさい”もいらないよ。全部、こちらが好きでやったことだからね。だから、ここで使っていい言葉は一つだけだ。」
自分の口の前に立てられた一本の指先を見つめてから、リリスはまた男へ視線を戻す。急にしゃべり出してしまったので、呼吸を整えるのにほんの数秒、時間が必要だった。息を整えて、5度目くらいの息継ぎで、ようやく言葉を吐き出す。
「・・・・ありがとう、ございました・・。」
「正解。」
男は満足そうにそう返すと、リリスの前に立てていた指を手元に引き戻して、自分も目の前のミントティーに口をつけた。
「んー、やっぱりこの国のお茶は、甘くて俺の口には合わないなぁ。」などと、自分で頼んでおきながら、苦笑いをこぼす。カウンターの内側でコップを拭いていた店主がぴくりと片眉を上げて男を一瞥すると、男は気まずそうに肩をすくめて見せた。

「あの・・・」
「ん?」
おずおずとリリスが口を開くと、男は、これ幸いとばかりに店主の視線を逃れてリリスの方へ顔を向けた。
「えっと、あなたは・・・」
「あぁ、すまない。まだ名乗っていなかった。俺の名前は、ルイス。ルイス・ベンジャミン。よろしく。」
「は、はい。こちらこそ、申し遅れました。私は、リリス・ブラウンです。リリスと呼んでください。えっと、それで・・・ベンジャミンさんは、旅の方、ですよね?」
「俺のことも、ルイスでいいよ。・・・まぁ、そうだね。住んでいるところは、ハイドランジアでもネリネでもないから、旅人って表現であっているかな。・・・どうして?」
問われて、リリスはこくりと唾を飲み込み、怖々とした様子で声を発した。
「あの、私、実は他国へ入るのは初めてで・・・もっと言うと、生まれ育った町から離れたこともなかったので、ちょっとびっくりしてしまって・・・。今回みたいなことは、外ではよくあることなのでしょうか・・・。」
ネリネは、特別豊かな国ではない。しかし、その代わりに大きな貧富の差もない国だった。特にリリスが長く暮らしていた都心を外れた田舎町などでは、昔ながらの互助会のような人と人との繋がりが自然とあり、リリスをはじめ、身寄りのない子供でもなんとか一人前の大人になれる環境がそこにはあった。他国に一歩足を踏み入れた途端、先程のような事件に遭遇してしまった。もしかすると、外の世界は自分が思っているよりも、困窮している人が大勢いるのかもしれない。とリリスは重い想像を膨らませる。
そんなリリスの瞳が困惑の色で揺れるのを見て、ルイスと名乗った旅人は彼女が何を思ってそう自分に聞いたのか正しく理解したらしく、彼女の不安を取り除くように優しく微笑んでみせた。
「なるほど。他国へ出てきて、早速こんなことに巻き込まれたことは災難だ。でも、今君が心配しているような理由ではないから、安心したらいい。少なくとも、今回のことに関して言えばね。」
「?」
リリスの顔に疑問符が浮かんでいるのを見て、ルイスは「んー、簡単に説明するとね。」と言って、人差し指を一本立てて話し始めた。
「リリスちゃんが、どこまでハイドランジアのことを知っているのか分からないけれど、実は、ハイドランジアは現在、内政がちょっとごたごたしていてね。検閲が厳しい状況にあるんだ。」
「!そういえば、通常、ここを通過する審査には1ヶ月掛かると聞きました。」
「そう。人もそうだけど、1番大きいのは物資の方だね。ハイドランジア国内で生産されたあらゆるものに対する検閲が厳しくなっていて、今まで国外に流通していた物の半数以上は国外への流通が禁止されている。限られた流通を許可されているものも、関税がかなり高額になっているんだ。だから、ハイドランジア産の物資は、市場で急激に希少価値が高くなっていてね。密輸業者が後を絶たない。併せて、昨今、この国境線に一番近い無国籍地帯での盗難被害が増えているっていう事情がある。」
「そうなのですね・・・すみません。私が知識不足で。」
リリスは、両手で握りしめていたカップをソーサーの上に戻して、ほうと息を吐いた。自身の無知を恥じる様にじっと手元に目線を落とす。そんなリリスを気遣うように、ルイスは明るい声で返した。
「気にすることはない。ハイドランジアの内政の急激な変化に関しては、本当にここ最近のことで、そのために俺も・・・あ、いやそれは君には関係のないことだな。」
「?」
リリスは、不自然に切り上げられた言葉の続きを伺うように視線を向けるが、相手はその視線をにっこりと整った顔面に見合った美しい笑顔で躱した。喫茶店でお茶を飲むという和やかな行為ですっかり忘れていたが、助けられた時にも感じていた只者ではない雰囲気がルイスからやんわりと漂う。
(この人は、一体、何者なんだろう・・・)
今更のようにそんな疑問が頭の片隅に浮かぶが、話し掛けやすい気安さを纏いながら、聞いたところで、その笑顔のまま容易く躱されてしまいそうな気配を感じて、リリスは迷いながら、言葉を探した。
「そういえば、ルイスさんはどちらまで行かれるのですか?旅の途中なんですよね?」
「あぁ、俺は旅の途中というか、ここには連れを迎えに来て立ち寄ったような形なんだ。そろそろ到着しても良い頃なんだが、何かトラブルでもあったのか、なかなか姿を現さなくて困っているところでね。もしも、ダークグレーの髪と瞳の難しい顔をした美人を見掛けたら教えてもらえると助かるよ。」
「そうだったのですか・・・。あ!それなら、検問近くにある窓口に行って聞いてみると良いかもしれません。私たちも、ここで人を探していて、丁度、先ほど呼び出しを掛けてもらったところで・・・・」
そこまで口にしてから、リリスは良いことを思いついたと胸の前に両手を合わせたポーズのまま固まった。瞬間的に、これまでの出来事が映写機を逆送り再生するかのようにキュルキュルと頭の中に映し出されて、それはリリスが本屋へ入る前にまで遡っていき、「はぐれない様にだけ、気をつけてくれ。」といったアデルの顔のシーンでぴたりと止まる。途端に、リリスの顔色がさっと青くなった。それはまるで、「触ってはいけません。」と口酸っぱく親に注意されていた大切な置物に手を伸ばして割ってしまってから、どうしようかと慌てる子供のようで、いや、まさにその通りの状況だったのだから、笑おうにも笑えない。
ここまで、時間にしてほんの1秒にも満たない間だったのだが、その変化は誰の目にも明らかで、隣りに座っているルイスが「どうかしたのかい?」とミントティーを傾けながら声を掛けると、殆どその語尾に被るようにして、ガタッと大きな音を立てながら、リリスは慌ててカウンター席から立ち上がった。
「そうでした!大変です!私、ここへ一緒に来た方に何も告げずにさっきの人を追いかけてきてしまって・・・!」
「おや、それは・・・・連れの人は相当心配しているんじゃないかい?」
「心配するのを通り越して、呆れられているかもしれません・・・。とにかく、元の場所に戻らないと・・・っ!あ、すみません!お会計を・・!」
荷物の用意をしながら慌てて財布を取り出そうとしたリリスの手元を、スッと大きな手が遮る。
「!」
「レディをお茶に誘っておいて、支払わせるような無粋な男と思われるのは侵害だな。」と、ルイスは実に自然な動作で金額を店主に差し出した。つくづく女性の扱いに長けていると思われるその所作は、その所作に見合う整った顔立ちに浮かべられた微笑みとセットで行われていて、そこには有無を言わせない何かがあった。先の一連のやりとりも手伝って、リリスは一言「あ、りがとうございます・・・。」と返す以外の選択肢を見つけられずに、そっと取り出した財布をリュックの中にしまう。
見ると、ルイスもすでに同じように席を立っており、リリスが店の出口へと歩き出すと、さも当然という顔で、自分も連れ立って歩き出した。
「さて、また変なことに巻き込まれるとも限らないから、元の場所まで送らせてもらうよ。ネリネ側の検問近くでいいのかな?」
最早、確認ではなく決定事項として告げられたそれは、リリスに疑問や断りの言葉を挟む余地を与えない。戻りの道が分からない状況ではあったので、有難い申し出には違いなく、リリスも、それに対して何も言わなかった。心の中で、「この人はどうやら、相当世話焼きな性格なのだろう」と顔面偏差値平均点以上の男に対して抱くにしてはとてもお粗末な感想を持ってはいたが。
「はい。わざわざ、お気遣いいただきありがとうございます。」

喫茶店から外へ出ると、そこは大通りに面した店で、リリスはいつの間にか自分が検問から伸びていたメインストリートまで戻って来ていたことに気付く。盗みを働いた青年を追いかけていった先は、確か細い入り組んだ路地奥の方であったことを思い返すと、どうやら自分は、ずいぶんと長いこと、ぼんやりとした状態でこのルイスという男に引きずられるようにしてこの店まで連れてこられたのだと思った。ここまで歩いてきた記憶があまりにもおぼろげだ。
「この通りなら、覚えがあります。このまま真っすぐ行けば、検問に辿り着けますよね?」
そう言って、背後のルイスを振り仰いだのと、リリスの腰高辺りに軽い衝撃が走ったのはほぼ同時で。
「え、わっ!?」
音としては、トスッという軽い音に過ぎなかった。
何事かと衝撃のあった部分に視線を下げると、すぐ後ろへ走り去っていく小さな後ろ頭が目に入る。茫然とその方向を目で追うリリスのよろける身体を、すぐ後ろにいたルイスが支えた。
「大丈夫かい?」
声を掛けると、すぐにルイスも背後へ走り去った少年の背を見つめた。そして、険しい顔で静かに、しかし素早くリリスに尋ねる。
「リリスちゃん、何かなくなったものはないかい?」
「え、・・・」
「いいから、その辺りに入れていたものをすぐに調べて。」
ルイスの言葉に漂う不穏な空気に、急に心拍が上がる。慌てて腰の辺りを探ったところで、リリスは自身に一体何が起こったのか理解した。
「!身分証が、・・・・私の身分証がありません・・っ!」
「リリスちゃん、さっきの子を追うよ!!」
リリスが探っている間も少年の行く先をずっと見ていたのであろう、ルイスはすぐに駆け出した。リリスも、続いて後を追う。




「あぁ、本を盗んだって奴なら、確かに今しがた、ここに連れてこられたよ。」
アデルは、盗人が捕まったという場所に一番近い警備の詰め所へ訪れていた。
窓口の男は、警備隊の一員とは思えないふくふくとした輪郭の頬を揺らして、顔に合わない小さなサイズのメガネの下からアデルを見上げる。
「その時、赤茶色の髪の少女が来ませんでしたか?」
「赤茶色?いや、盗人を連れて来たのは、ずいぶんと顔の整った男だったけど・・・赤茶ではなかったかな。」
「男?」
「そうそう。ここらじゃなかなか見ないくらい整った顔だったから、びっくりしたよ。あれは、国外の人間に間違いないね。いかにも、“旅人”って格好だったから。」
窓口の男は、手元に置いた紅茶を飲みながら、昼休憩のおしゃべりでも楽しむかのように話す。とても勤務中の態度には思えず、アデルはあからさまに嫌そうな顔を向けたのだが、相手の方は全く意に介していない様子だ。
「ありがとう。勤務中にすまなかった。」
これ以上話を聞いても無駄だと判断して、窓口を離れる。半分くらいは嫌味のつもりで言ったのだが、「どういたしましてー。」と呑気な返答に、頭を抱えたくなった。
(困った。警備に引き渡したのがリリスじゃないとすると、これ以上探しようがない。あとは、入口の検問まで戻ってみるしかないか・・・・。)
盗人を引き渡しに来た顔の整った男というのも気になるが、人を尋ね歩くには情報量が少ない。もう一度だけ、窓口に戻って男の特徴を聞こうかと、アデルが振り返った時だ。

「だから、茶髪の女にしつこく追いかけ回されて、無理矢理振り切ろうとしたら、金髪の綺麗な顔したおっかない男が、突然横から入ってきたんだよ!」

(!)
詰め所の奥から、若い男の訴えるような声が外まで聞こえてきた。
アデルは思わず足を止めて、その声に耳を傾ける。
「ぎゃーぎゃー喚くな!・・・・金髪だかなんだかしらねぇが、こんな簡単に捕まっちまうなんざ、てめぇの腕が落ちたんだよ。」
訴える声よりもあきらかに落ち着きがあり、しゃがれた響きの中にどこかドスのきいた音が混じった声が返す。
「女一人だったら、俺一人だって、簡単に振り切れたんだよ!」
「ぬかせっ!その前に、追いつかれて壁際まで追い詰められてんじゃあ、いずれにせよ同じじゃねぇか。」
そっと、詰め所の奥へ視線を向けると、檻状の拘留場所に入れられた青年と、その檻の外のすぐ傍らで、背のない木椅子に腰かけた男が話をしていた。アデルからは骨の浮いた線の細い背中しか見えないが、叱責している声は、檻の外に腰かけている男の方で間違いない。
(捕まっている方が、本を盗んだ奴か・・・・)
会話の内容からして、檻の外にいる方も善人という訳ではないだろう。あからさまに、同じ盗人グループの人間と思われるにも関わらず、警備の者は誰もその男を気に掛ける様子はなく、あののんびりとした窓口の男も、相変わらず楽しそうに新聞片手に紅茶を飲んでいる。
(他国の情勢に口を挟むつもりはないが・・・・この国の警備はどうなっているんだ。)
奥にいる2人に気づかれない程度に、剣呑な視線を送ってみるが、もちろん、窓口の男がその視線に気づくことはない。
「とにかく、あの野郎はとんでもなく強かったんだ!あれは、きっと他国の諜報員に違いねぇ!捕まえて吐かせれば、あっちの方が困るに決まってる!!」
「ああ、ああ、てめぇの言い分は分かった。そっちは、もう他の奴らに行かせてる。お前を追い詰めた茶髪の女ってのも一緒だったみてぇだから、まとめて痛い目見させられるだろうよ。いいからお前は、早いとこそっから出られるように、オヤジへの言い分を考えとくんだな。」
檻の外に座っていた男は、それだけ言うと木椅子から立ち上がり、ゆっくりと詰め所の出口へ向かう。
「おう、あんたにも世話かけたな。あとで別の奴が迎えに来るだろうが、また頼むぜ。」
「はいはい。ご苦労さんでーす。」
窓口の男と親しげに声を掛け合い、外へ出てきた。

「ったく、捕まるなんざ面倒かけやがっ・・・て・・・・っ!?」
「動くな。」
低く、怒りを押し殺した声色が詰め所から出てきた男の耳朶を震わせた。
アデルは、左手で細身の男の腕を掴み、相手の背中に押し付けるように固定した格好で、右手で背後から男の首根っこをがっちりと掴む。
「騒ぐな。騒ぐと、お前の左腕が曲がらなくていい方向に曲がることになる。」
「・・・へへっ、兄ちゃん誰かと人違いしてるんじゃねぇか?おれぁ、あんたに迷惑かけた覚えはねぇけどな。」
へらへらとした喋り方をする男の首を掴み上げた腕にぎしりっと力が加わった。
「今拘留所に入っている男を連れてきた奴を、誰かに追わせているんだろう。どうする気だ。」
「・・・あんた、あの野郎の知り合いか?それとも、一緒にいたっていう女の方か?いずれにしても、下手なことはしない方が身のためだぜ。」
男は急に声を落として、自分の状況には見合わない脅すような言葉を吐き出す。アデルはその物言いに違和感を覚えた。
「・・・・盗人集団の割に、随分と警備隊と仲がいいんだな。」
「それが分かってんなら、尚更、話は早い。兄ちゃんも頭が良いなら分かるだろ?俺らと事を構えるのは、よくねぇってことがさ。」
「追わせている2人はどこだ?場所を答えろ。」
「おいおいおいおい、だぁから、さっきから言ってんだろ?俺らを敵に回さない方が、身のためだってな・・・っ!!」
男は不意に、固定されていない右手の袖から小さなナイフを抜き出し、背後のアデルへ切りかかろうとした。が、左腕の固定と、首背面を掴み上げたアデルの手の力は強く、ピクリとも身体が回らない。ナイフを手にした右手が、中途半端にアデルの脇腹の横で止まる。その膂力の大きさに、ここにきて男は自分の背後にいる人物がその辺にいる一般市民ではなく、なんらかの訓練を受けた人間であることに気づく。背後からの気配が、急激に冷え込むのを肌に感じて、それに反するように自身の背に冷たい汗が流れていくのを感じていた。
「・・いやっ、今のは、ほら、ちょっとした挨拶みたいなもんで、・・・兄ちゃんがあんまり怖い声出すもんだから、びびっちゃったっていうかさ、・・・だから、そのっ・・・」
「俺は、忠告したぞ。」
「へっ?・・っつ、!!!???あ、がはぁっつ!!!!!?????」
ごとり。いや、ごきりというのか、鈍い音が男の身体の中を通って内側から鼓膜を震わせる。
押さえ込まれていた左腕の肩部分が、熱の塊みたいに熱くなって、そこから先の感覚が鈍くなる。脳が自分の身体の変化を認識した瞬間、膝が故障でもしたみたいに笑い出し、男は力なくその場に膝を着いた。
「な、な、お、お、折れ・・っ!!!???」
「安心しろ。関節を外しただけだ。・・・もう一度聞く。2人はどこだ?」
アデルは男の関節に軽くひねるような力を加えながら、初めと変わらない口調で尋ねる。地面に塞ぎ込んだ体制の男に合わせるように自身も膝を折って、相手にだけ聞こえる声の大きさで話しかけており、周囲から見たら、気分が悪くなった人間を介抱してやっているようにしか見えない。
痛みと混乱で、抵抗という言葉が完全に頭の中から消失してしまった男は、震えるままに声を絞り出した。
「お、大通りを西へ折れた先の路地裏に・・・っ」
「もっと詳しく。」
「や、宿屋と時計屋の間を入ったところだ・・・っ!!」
「助かった。協力感謝する。」
「ひっ、いぎあっ・・・!!!!」
またしても、ごとりという鈍い音と痛みが身体の内側を巡り、男は肩から指先までの感覚が繋がって、じんじんと痛みが登ってくるのを感じていた。それは、外した関節を元に戻した音だったのだが、あまりのことに自身の身に起こったことに頭がついていっていないのか、アデルが腕を離しても、男は地面に伏して震えるまま立ち上がれずにいた。
(少し、脅しすぎたか・・・・)
心の中で反省しつつ、素早くその場を去ろうと立ち上がる。

「・・・・王家の差し金か・・・ナタリア様の、刺客なのか・・っ」

震える声はあまりにも小さく、傍にいたアデルの耳が辛うじて拾えるくらいの大きさだった。
「・・・何か勘違いしているようだが、俺は誰かの命でお前を襲ったわけではない。」
アデルの声が届いているのか、震える男はブツブツと小さく呟くばかりで、最早、アデルの方を見てはいなかった。
(とにかく、早くリリスとその顔の綺麗な男とやらを追わなくては・・・・)
先程から再三話に上がってくる“顔の綺麗な男”というのに、何やら嫌な予感を感じとりつつ、アデルは警備詰め所を後にした。




「なんか、こんなことじゃないかとは、思ってたんだけどねぇ。」

ルイスは、相変わらず軽い口調で、自分たちの現状を言葉にする。
リリスの身分証を盗っていった少年を追って、大通りから右に折れた路地裏に入ったところで、2人は見るからに柄の悪そうな男達に囲まれていた。
彼らの指示でリリスから盗みを働いたのであろう少年は、男たちの中の一人に盗った物を手渡すと、小さな銀貨を受け取って、その奥へと走り去っていってしまった。
路地の奥から進み出てきた目元に傷跡のある顔の男が、少年から受け取ったリリスの身分証を眺めながらしゃべり出す。
「たまにいるんだよなぁ、お兄さんたちみたいな正義感の強い旅行客ってやつがさぁ。よその国のことにいちいち口を挟んでくるのが趣味だとでも言うみたいに。ま、でも、今回はいい教訓になったでしょ?関係のないことには首を突っ込むなっていう。」
言いながら、ひらひらと身分証を振る。
「その話から察するに、さっき俺が警備に突き出した盗人の仲間・・・ってところかな?」
手元の刀剣に手を添えながら、ルイスはざっと辺りを見渡し、相手側の人数をカウントしていた。
(8人ね・・・・)
背後にリリスを庇いつつ、8人を相手にどこまで立ち回れるかと計算するが、相手側も馬鹿ではないらしく、長物である刀剣を持ったこちらが立ち回りにくい路地裏に誘い込んできていることを考えると、無闇矢鱈に剣を抜くのも得策ではなさそうだ。
「わ、私の身分証を返してください・・っ!」
悪い事態に陥っていることを感じつつ、リリスもまだ声を発する気力は残っている。でなければ、男8人に囲まれた状況で、自身の主張を声に出すことは叶わないだろう。目元に傷のある男は、人数に武があるからか、ルイスが剣に手を掛けていることも気にすることなく、余裕の表情で身分証をひらりひらりと振り続ける。
「こいつを見たところ、そっちのお嬢さんは本当にお人好しの一般市民みたいだが、金髪のあんたは、一体何者だ?この無国籍地帯に入るのに刀剣の携帯まで許されてる。・・・まさか、抜刀までは許可されてないよな?となると、さっきこちらの仲間を捕らえるときにその剣を抜いてたことがバレると、あんたもヤバイんじゃないのか?」
男の言葉に、リリスもハッとしてルイスの顔色を伺うが、ルイスは表情を崩さないまま返した。
「・・・・それはどうかな?もう一度、試してみるかい?」
柄に掛けた手は離さない。
リリスは、やはりこの人物もなんらか特殊な理由を持った人物なのだと思ったが、この場でそれを尋ねる余裕はなかった。
(どうしよう・・・私が一緒についてきてしまったから、ルイスさんも戦い辛い状況に・・・)
ぐるりと視線を巡らせるが、見事に退路を塞がれており、自分一人でもここを突破して逃げ出すのは厳しいように感じた。
「まぁた、自分が迷惑かけてるって思ってる?」
「!」
突然掛けられた言葉に顔を向けると、ルイスは周囲の男達の方へ警戒の視線を向けたまま、口元だけにっこりと笑んでいた。
「言っておくけど、こうなる可能性も考えた上で、リリスちゃんについてくるように指示したんだ。どうせ、こちらが二手に分かれたら分かれたで、向こうも二手に分かれるつもりだっただろうし。そうなると、それこそ相手の思う壺だからね。」
そんなことまで考えていたとは思わず、リリスは改めて目の前の男が只者ではないと感じていた。とはいえ、ルイスもこの状況の打開策を探しているのか、口調や表情には出さないまでも、相手の出方を伺いながら、剣の柄にかかった手に力が入っているのが分かった。
剣の腕が立つのだとしても、狭い空間で人一人を守りながら戦うのがどれほど難易度の高いことなのかくらいは、リリスにも想像がついた。
顔に傷のある男が両隣に立つ他の仲間に視線を送ると、周囲を囲む男たちはじりじりと2人を囲む円を狭めてくる。
(左右に1人ずつ。前3人。後ろ3人。どこからくる?)
柄を握る手に更に力が入り、刃の部分が鞘から3cm程度見えた。その光に反応して、正面に立ちはだかる男たちが瞬時に地面を蹴って、前へと素早く進み出る。ルイスもついに覚悟を決めて、剣を抜き去ろうとした時、鞘から刃が出切るよりも早く、目の前の男たちの動きが止まった。
「!?」
ルイスも同じように剣を抜く手を止める。見ると、どの男も目の前の自分ではなくその更に後ろへと視線を向けていた。
「うぐぅっ・・・!?」
続けて背後から男のうめき声が聞こえ、ルイスは慌てて背後を振り仰ぐ。ルイスが目を向けた時には、こちらに背を向けて路地の入口に立っていた見張りの男が地面に倒れ込むところだった。
同じく異変に気がつき振り返っていたリリスが、そこに立つ姿を目にして、声を上げた。

「アデルさん!」

アデルはその声に、探し人が確かにそこにいることを確認する。
「リリス!無事か・・・っ!?」
走り寄ってくる新たな乱入者に周囲の男たちに動揺が広がり、当のリリスたちへの注意が逸れたのをルイスは見逃さなかった。
「リリスちゃん、そのまま走って!」
「!はい!」
リリスの背負うリュックを軽く押すようにして、瞬時にルイスが声を掛けた。リリスもそれに反応して、通りの方向へと走り出す。不意をつかれた男たちは、自分たちの間を2人がすり抜けて行くのを止めきれない。
「そいつらを逃がすな!!」
傷の男の罵声が飛ぶが、2人はそこを振り切っていた。
そして、男たちの囲いを突破して走ってきたリリスとその背を押すようにして駆けてきた男の姿に、アデルは目を見開く。

「ルイスっ!?なんでお前がここに!」
「やぁ!まさか、リリスちゃんの連れっていうのが、アデルだとは俺も驚いたよ。」
「えっ!?お二人は、お知り合いなのですか!?」

リリスがアデルとルイスの方を交互に見ながら驚きの声を上げるが、すぐ背後から男たちが追ってきている状況で、悠長に説明をしている暇はない。
ルイスはそのままリリスと共に、アデルとすれ違うようにして、その背後に身を隠した。
「アデルさん、あの人たちは私が追いかけた人の仲間みたいで・・・・」
「分かってる。」
「リリスちゃん、ここはアデルに任せて大丈夫だよ。」
見ると、ルイスはすでに剣の柄から手を離し、先程までの緊張感は完全に消失している。男たちが追ってくるのを、余裕の表情で見守っているような様子すらある。
「逃げない方がいいのか?」
「厄介なことに、リリスちゃんの身分証を向こうの男に盗られちゃっててね。」
ルイスがそう言うと、アデルは追ってくる男たちに向かって、半身を引いて構えをとった。
「一応聞いておくけど、剣とか使う?」
今思い出したかのようにして腰の剣に手を伸ばし、アデルに尋ねるルイスの声は、まるで食卓の端に置かれた調味料入れを持ち上げて「塩いる?」みたいな聞き方だった。

「不要だ。」

そう一言発したアデルは、吐き出した言葉と同時に、地面を蹴った。

リリスはそれを後に、“踊っているようだった”と例える。
追ってきた1人目の男の拳を避け、避けざまに右手で手刀を一発、首側面に叩き込む。続いて来た2人目はそのまま腹部に左手の拳を叩き込み、3人目のナイフの切っ先を下に避けると、その勢いのまま腕を取って背後に投げ飛ばした。ここまで、わずか5秒足らず。
残りの男たちが一瞬怯んで足を止めるのにも構わず、一息に距離を詰める。4人目の喉元に手を掛けると、そのまま引きずり倒すようにして、5人目へと投げつけた。路地壁面に勢い良くぶつかって、そのままズルズルと地面にへたりこむ。
残り3人となったところで、リーダー格であろう傷の男が、一歩後ろに身を引いた。
「おい!この男を早く止めろっ!!」
ここまでの動きを見ている第三者からしたら、「無茶な!」と思うようなことを叫ぶ男に、それでも逆らうことはできないのか、両側の2人が手に刃物を取り出して構える。
「こ、このぉぉおおおおおっ!!!」
勢いだけで前に飛び出してきた男に対して、アデルは身を翻すように刃の先を交わしながら、その勢いのまま、相手の脳天に向かって後ろ回し蹴りを繰り出した。
更にそのまま蹴り出した足で相手の身体を踏み台にして、左足を前に蹴り出し、呆然と立ち尽くしたもう1人の顔側面に蹴りを叩き入れると、その緩んだ手元から浮いたナイフを手に取る。
傷の男はそこまでの一連の動作を目にして、漸く自分が相対しているものが尋常ならざる事態だということに気がつき、慌てて路地奥へ逃げ出そうとするが、そうして身体の向きを変えたその時には、アデルはすでに男の背後に迫っていた。
男の首の後ろに手を掛け、前の地面に押し倒す。顎が直撃した男は、幸運にも舌を噛まなかったものの、ぶつかった衝撃がその痛みとともに顎から頭の上まで駆け抜ける感覚と眼球が激しく上下するのを感じ、次に揺れる視界が鮮明になると、自分の眼球スレスレのところにナイフの切っ先が迫っているという恐怖に「ひっ・・・!」と思わず、噛み締めた歯の奥から声を漏らした。瞼を閉じたら、その瞼が切れるのではないかという距離だ。

「彼女の身分証を返してもらおうか。」

最早、身分証のことなど男の頭の中から抜けて落ちてしまっていたが、ただただ食いしばった歯の奥から「はいっ・・・」と気の抜けたような声を発することしかできない。

ここまでの状況を見ていたリリスは、ぽかんと口を開けたまま、立ち尽くしていた。それこそ、ルイスに助けられた時以上の衝撃だ。
そんなリリスに、ルイスは慰めともつかない言葉を掛ける。
「接近戦で、アデルに敵うのは熊くらいだと思うよ。」
「そう、なんですか・・・」
リリスは頭の中で、熊と戦うアデルの姿を想像した。


To be continued.…


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No.531|GardenComment(0)Trackback

『Garden』 -第二章:青と白の国①-

2018/07/16(Mon)18:23

「アデルさん!」
リリスは弾む声で呼びかけると、噴水の縁に腰掛けているアデルの眼前に立った。ステップを踏むような足取りだったためか、足の止め方が多少慌ただしい調子になってしまっていたが、彼女にそんなことを気にしている様子はない。
アデルが顔を上げると、大分口元の締りが悪くなった少女の顔に出会った。
その頬は興奮のため、僅かに上気して赤く色付いている。瞳は紅茶の水面のようにキラキラと瞬いて、全身から溢れ出す嬉しさを隠すことなく周りに放っていた。
彼女の手に握られた二つ折りの小さな紙片に目を留めて、アデルはホッと息をつく。
「無事、発行されたのか。」
「はい!これで私も、お隣りの国に入れます!」
リリスは嬉しさを滲ませた声で、その二つ折の紙片をパッと開いて、アデルの前にかざしたのだった。
そこには、“Lillith・Brown”という文字と生年月日などの情報に加え、この国ネリネの国印が押されていた。
「わぁ!これが身分証なんですね!」
リリスは、長方形の紙片を両手の指の先で挟んで、じっと見つめる。
ラントの町を出てから、すでに2日が経過していた。
半日をかけてネリネの首都ネリアへ到着し、そこから検問を通って、国境を接する隣国ハイドランジアへ入り、一国を通過する形でその先のガーデンハートへ向かおうとしたところで、リリスが身分証を持っていないことが判明したのだ。
国によって厳密さは異なれど、どの国でも子供が生まれればそれを町の役所に届け、国は自国民を管理する。そこへ更に身分証という制度が確立されたのは、ガーデンハートが建国された後からだ。それこそ、国間の貿易が盛んになり、人も物も頻繁に行き来をするようになってから、国境を超える際には、その者がどの国の者なのかを示すための重要な証明書となっている。
ガーデンハート建国以前には考えられなかったことだが、旅行という娯楽目的での国の移動も、ある程度許されている昨今、大抵の人は皆、この身分証の発行を早々に行っているものなのだが、リリスは、今まで自分の母国から出ることなど考えたこともなかったため、その制度すら、あまり認識がなかったようだった。
(彼女の出自を聞いた身としては、ブラウンさんがちゃんと彼女の届け出を国に出してくれていただけ、よかった・・・。)
彼女が拾われた子供だという話を知っていたアデルとしては、よもや、国民登録すらされていなかったらどうしようかと肝を冷やしたものだが、役所へ行って調べてもらうと、案外すんなり登録が見つかったので、胸を撫で下ろした。
ただ、それでも初回の身分証発行には、過去その者がこの国に暮らしていたことを証明するために、役所の様々な部署へ足を運ばねばならず、手続きが煩雑になってしまうため、今日の今まで発行に時間がかかってしまったのだ。

「先ほど、発行の知らせが来て君が役所へ向かっている間に、宿の荷物は引き上げてきた。このまま、検問を通ろう。」
「はい!」
リリスは弾んだ声のまま、アデルから自分の荷物を受け取った。
隣国ハイドランジアは、ネリネの南東部に国境線を構える国だ。
接している国境線は長いが、実際に出入りのできる検問が設けられているのは、首都ネリアと接している南側の端の極一部のみとなる。
アデルたちと同様に、ネリネからハイドランジアへ入る人の列が、検問に向けて伸びていた。
「この検問を抜けたら、すぐにお隣りの国なんですよね?」
「いや、この先は無国籍地帯になっている。」
「無国籍地帯?」
「国によって造りも異なるが、大抵の場合は、国と国の検問の間に無国籍地帯が設けられていて、そこで更に入国審査をされる。国内に実際に入れるのは、その審査を通ってからだ。」
「審査には、どのくらいかかるんですか?」
「これも国によってまちまちだが・・・ハイドランジアの場合、約1ヶ月。」
「1ヶ月も!?」
驚くリリスに、アデルはこほんっと小さく咳払いをして続ける。
「通常の場合はだ。今回は、先にハイドランジア側からガーデンハートの者に迎えに来るように頼んである。入国する国内側に身分を保証できる者がいる場合、入国審査は簡単な手続きだけで済ませることができるんだ。」
「はぁ・・・そうなんですね。」
リリスが感心したように言うので、何も特別な話はしていないのに、アデルはなんだかむず痒い気持ちになった。ラントでは、彼女に振り回されてばかりだったが、一歩町の外の世界に出てしまうと、リリスはなんでも初めてだと言って、喜んで色々なことを聞いてきた。彼女が、いかにあの町から出たことがなかったのかということを痛感させられる。
アデルはふと、マルグリットがあの町のことを“箱庭”と呼んでいたことを思い出した。
(彼女の力のこともあるし、自然と町の外へ出すようなことは避けてきたんだろうな・・・。)
それは決して、彼女を傷つけるためではなく、あくまでも守るためだったのだろう。それでも、ある程度分別のつく年齢になれば、周りの大人たちが自分のことを町に縛り付けている事実に気がついたはずだ。
(それに気がついたとき、一体、彼女はどう思ったのだろう・・・・。)
「・・・アデルさん?」
いつの間にか、じっと見つめてしまっていたらしい。アデルの視線に気がついたリリスが、不思議そうな顔で振り返ったことで、アデルはハッとして物思いから覚めた。
「あ、いや、なんでもない。・・・・そういえば、君の誕生日はブラウンさんが君を見つけた日になっているのか?」
見つめていたことを誤魔化すように、何気なく話を振るが、振ってしまってから、彼女と彼女が祖母と慕うブラウン氏に血の繋がりがないことをリリス本人は知っているのだろうかと、急に不安になり、話の選択肢を間違えたことに気がつく。「いや、今のはなんでも・・・!」と思わず訂正しかけたところで、リリスはなんでもない顔で、自分の身分証をアデルに差し出した。
困惑した表情で身分証を受け取るアデルに、「心配しなくても、私と祖母の間に血縁関係がないことは、知っていますよ。」とリリスは微笑みながら返す。
「マルグリットさんが、アデルさんにお話されたと言うのも聞きました。」
「・・・そうか。」
それが、彼女の意図したところではないにしろ、彼女には、いつも慌てさせられている気がするアデルである。
「正確な誕生日は分からないので、登録は祖母が見つけてくれた日になっています。でも、見つけた時点でまだ生まれたばかりだったみたいなので、生まれ年は恐らく間違っていないのではないかと。」
アデルはもう一度「そうか。」と返しながら、渡された身分証を何気なく見聞して、次の瞬間、思わず物凄い勢いでリリスの顔を見返した。ブンッ!と思いっきり風を切る音が聞こえたくらいだ。
「リリス・・・き、君は今・・・・14歳なのか・・・?」
「はい。14ですけど・・・?」
それがどうかしたのかといった表情のリリスに、アデルは戸惑ったまま「・・・そうか・・。」と辛うじて声を絞り出した。少女だとは思っていたが、まさかまだ、士官学校に通っている学生のような年齢だとは思っていなかった。
自身で生計を立てているようでもあったし、どこか学校に通っているような素振りもなかった。

(いや、よく考えたら、女性がこの年齢で勉学に励むことのできる国は、まだ限られる。あったとして、家柄や入学金の問題もあるし、一概に、この年齢の全ての女性が学生であるとは考えられない。いや、でも、ネリネ国は確か女王が治めている国ではなかったか・・・?)

ぐるぐるとここまで一気に様々なことが頭の中を巡っては、流れていったが、その答えはどこにあるでもなく、ただアデルは、自分が今から本当に年端もいかない少女を、国外に連れ出そうとしているという責任の重大さに、改めて気を引き締めねばと感じていた。

アデルが深刻な顔をしているのを尻目に、リリスは興味深そうに「そういえば、アデルさんの身分証はどんなものなんですか?」と聞いてきた。
「え?あ、あぁ、これだが・・・。」
「!わあ!本の形になっているんですね!」
アデルが差し出した身分証を手に、リリスは目を輝かせる。それは、革で出来た赤い表紙の小さな冊子型をしており、ページを捲ると、初めのページにアデルの個人情報が書かれ、それから後のページには、様々な国の印が日付と共に押印されていた。
リリスに発行された紙1枚の身分証とは、雲泥の差だ。
「ガーデンハート国の発行する身分証は、国の成り立ちの特性上、厳密な審査の下発行される。そのため、他国からの信頼が高い。この身分証を持つ者は、基本的に隣接した国に入るのに、煩雑な手続きはいらないんだが、ハイドランジアに関しては内政の問題もあり、現在、検閲が厳しい状況にある。ガーデンハート側からハイドランジアに入るのには苦労しなくても、一度出国して他国へ入ってしまってから戻るのでは、俺でも内側からの迎えが必要になるんだ。」
アデルがそう説明する間に、リリスはアデルの身分証をじっと見つめていて、ゆっくりと顔を上げると、またアデルのことをじっと見返した。
「・・・アデルさんだって、そんなに年齢変わらないじゃないですか。」
「!俺は、もう成人している。それに君とは、6歳も違う。」
「でも、私もラントでは、もう大人として扱われていました。」
リリスは、預かった身分証をアデルに返すと、「だから・・・」と言って、一瞬言い淀んでから、「そんな風に子供扱いされると、寂しいです・・・。」と困ったように眉根を下げた顔で言った。

思わずため息が出る。
そんな顔をされても、困った顔をしたいのは、こっちの方だと言いたいのを飲み込んで、アデルはリリスの頭にポンッと手を置いた。驚いた顔で、リリスが見上げるとそこには幼い妹にでも向けるような優しい眼差しをしたアデルがいた。
「・・・そういうところが、子供だって言うんだ。」
「な・・!」
「俺も、君をここから連れ出す以上、保護者として必ず君を守る。だから、信じてついて来てほしい。」
「!!」
そんな風に言われて、リリスは何も反論ができなくなってしまった。自分の年齢が分かった途端、急に子供扱いしようとするアデルに、どこか初めて会った時のような距離を感じて寂しかったはずのなのに、今は、アデルの大人の部分を垣間見たような気がして、リリスは少しドギマギしてしまう。


「次の方、身分証をこちらへ。」
「!は、はい!」

言い返す言葉を思いつかないまま、気がついたら、検問の順番が回ってきていた。
離れていってしまう頭の上の重みを少し惜しみながら、リリスは、少し高い位置に設置された木台の上へ手を伸ばして、自身の身分証を検閲官へと手渡すと、検閲官がそれを確認するのをじっと見つめて待つ。別になんの不備もあるはずがないのに、妙にドキドキしてしまうのは、検閲官の眉間に浮かんだ年季の入った皺のせいなのか、もしかすると、この高圧的に感じる高低差をつけた木台のせいかもしれない。
検問の両側には、制服を着た衛兵が立ち、検閲を終え、開かれた門扉を通り抜ける人々を監視している。
たった数秒のことのはずなのに、それがまるで、とても凝縮された時間のように感じた。

「はい。どうぞ、先へ進んでください。よい旅を。」
「は、はい!ありがとうございます!」
緊張した面持ちで検閲官から身分証を受け取り、リリスは門へと進んだ。後ろを振り返ると、アデルが視線で先に入っているように合図したので、軽く頷いて歩を進める。
門番の横を通る瞬間、妙な緊張で身体に力が入った。リリスは担いだ自らのリュックの肩掛けを握り締める手にぎゅっと力を入れて、門の内側へと足を踏み入れた。


「わあ・・っ!」

門から一歩中に入ると、そこには小さな町が広がっていた。
門から真っ直ぐに伸びる太い道なりに、建物が並んでいる。それらは全て同じようにこげ茶色をした四角い無機質な形をしており、ネリネの国でよく見る木の梁や柱と白い土壁を合わせ、外壁を模様の様に組んだ上に、赤茶色のレンガで出来た屋根瓦が乗った家とは全く異なる様相をしていた。
無国籍地帯とはいえ、場所的には、ここは既にネリネの国境線を超えた、ハイドランジアの内側になる。リリスは急に、自分が他国へ足を踏み入れたのだということを実感した。

「ネリネとは、全く違うだろう。」

気がつくと、驚きで固まっていたリリスの隣りには、審査を終えて検問を通ってきたアデルが立っていた。リリスは、コクコクと頷きを返す。
「私、家というものは全て、三角の屋根が付いているものだと思っていました。こういう形のおうちもあるんですね!」
興奮気味に話すリリスの瞳は、また輝きを増している。アデルはどうやら彼女の機嫌が治ったようでよかったと思ったが、それを口に出すことはしなかった。
「ここはまだ無国籍地帯だが、管理自体はハイドランジア側が行っている場所だ。だから、内部の構造も向こうの文化が反映されている。先ほど、入国審査には1ヶ月かかるといったが、その審査待ちのための宿屋なども整備されていて、簡単に言えば、壁で囲われた小さな町といったところだ。」
「壁に囲われた小さな町・・・・確かに、言われなければ壁もよく分かりません。」
二人が立っている太い道の先は、途中で緩く左に折れていて、その先までは見渡せなかったが、なかなか奥まで続いているように見えた。左右も、かなり余裕を持った造りにされているのか、壁の姿は見えない。ともすると、ここがまだ入国前の待合い場所であることを忘れてしまいそうだ。
「毎日多くの人が出入りをするから、内部はかなり広大だ。はぐれない様にだけ、気をつけてくれ。」
またしても、子供扱いされたようで、リリスは何か言いかけたのだが、アデルはそんな彼女の視線に気づかない振りをして話を続けた。
「まずは、ハイドランジア側からここへ迎えに来ているはずの使者と合流する必要がある。検閲官のいる窓口で聞いてみよう。」
アデルが歩き始めたので、リリスもその後を追う。小さな町の中は、当然ながらこれから他国へ入ろうとする旅行者の空気を纏った者たちで溢れており、不思議な雰囲気を帯びていた。


「確かに、あんたの分の証明申請は出ているが、もう一人の分は出ていないな。」
「あとから、一緒に来ることが決まったんだ。証明者に会って、直接事情を話したい。証明者の居場所は分かりますか?」
「証明者がどこにいるかまでは、こちらでは管理していない。呼び出しは掛けてみるが、最悪、すでに国内に戻ってしまっている場合もある。」
「分かりました。よろしく頼みます。」

「どうでしたか?」
窓口での会話を終えたアデルが出てくると、リリスが不安そうな顔で近づいてきた。その表情を見て、おそらくは自分がそういう顔をしているせいだろうと、アデルは思わず自分の眉間を指で撫でる。
「ガーデンハートからの使者は、俺たちよりも先に着いていたようで、俺の分の証明申請はすでに提出されていた。俺だけなら、すぐにでも国内に入国することが可能だが、君の分の証明も行わなければならない。必ずここで落ち合うことにしているから、この中にいないということはないだろう。一度、来ているはずの証明者と合流するつもりだ。が、すぐに見つかるか分からない状況だ。今、呼び出しを掛けてもらっているが、呼び出しと言っても、この内部にいる検閲官たちが個別に宿などに声を掛けるようなものだから、直ぐに連絡がつくとは限らない。・・・意外と、時間が掛かるかもしれないな。」
「そうですか・・・。すみません。私のせいでお手数を・・」
「気にしないでくれ。そもそも、君を連れて行くことを事前に連絡しておかなかった俺の不手際だ。念のため、宿の空き状況も確認してくる。」
そう言って、もう一度、窓口に戻ろうとするアデルの背を「あの、アデルさん!」とリリスの声が引き止める。何事かと振り返ると、そこには星を落とさんばかりにキラキラと瞳を輝かせている少女の姿があった。
「お、お話されている間、そこにある本屋さんに入っていてもよいでしょうか・・・!」
「くっ//・・・どうぞ。」
アデルは笑いを堪えながら、そう答えるのが精一杯だった。


リリスは恐る恐る、店内に足を踏み入れた。
内装は、簡素な外装ほどのインパクトはなく、どこの本屋でも同じように、木で出来た本棚が整然と並んでいる。嗅ぎ慣れた紙とインクの臭いに、リリスは途端に顔がほころぶのを抑えられなかった。
棚の手前にある平積みのコーナーを覗き込むようにして目を走らせる。どの本も、自分のいた町では見かけたことのないものばかりだ。気になるものを一冊一冊手に取っては、パラパラと中身を捲って、表紙から紙の感触までを楽しむようにして見ていった。
自分の知らない本が、これほど沢山あるという事実に胸が高鳴る。手に取った本一つ一つが、全てハイドランジアという国の文化を反映したものなのだということを改めて感じる。
(そうだ。絵本のコーナーも・・・もしかしたら、国に伝わる独自の物語もあるかもしれない。)
リリスは、本棚の間を縫って奥の絵本コーナーへ向う。大きなリュックが邪魔にならないように気をつけながら進むが、何分大きな荷物のため、どうしても狭い店内を動き回るのには適していない。過ぎようとした通路の途中で、本を物色する他の客の背にぶつかってしまい、咄嗟に「あ、すみません。」と声をかけながら、そちらへ視線をやった。

(!)

リリスは、目を疑う。
(今、この人・・・。)
すれ違った人物が、店の出口に向かったのを見て、気がついたら、思わずその腕を掴んでいた。
「あのっ!」
「!?な、なんだよ。」
腕を掴まれた人物はぎょっとした顔で、振り向く。若い青年だ。服装はいかにも旅人の様相で、布製の鞄を肩から斜めに下げ、頭にはキャスケット帽を目深に被っている。
「あの、もしも私の見間違いならすみません。今、そこに積まれていた本を鞄の中に入れましたよね。」
「!?」
「それ、お会計はまだなんじゃないでしょうか。レジはお店の奥にあります。このままお店を出てしまったら、貴方は・・・・」
「っつ!!離せっ!!!」
「いっ!//」
青年は掴まれていた腕を大きく振り払って、リリスの拘束から逃れると、一目散に店の外へ走り出した。リリスは慌てて店の外まで飛び出して「待ってください!!」と声を掛けるが、それで待ってくれる訳もなく、このままでは見失ってしまう。
騒ぎに気がついた店の主人が、「どうかしましたか?」と店の奥から出てきた。
「今、あの人が、本を盗んで行ってしまいました。警察の方に通報をお願いします!」
「えっ、あんたちょっと・・・っ!!」
青年の背を追って、リリスはその場を駆け出した。

青年は、太い通りから左に入る小道へと折れた。
この町は、あくまでも入国審査待ちのための施設でありながら、ご丁寧にもちゃんとした一つの町の形で形成されており、厄介なことに、メインの通りから左右にもいくつも小道が伸びていた。
「待ってください・・・っ!!」
「くそっ!しつこいな!!」
相手はどうやらこの町に慣れているようで、いくつもの複雑な道を折れ曲がりながら、リリスを振り切ろうと駆けるが、リリスも、振り切られまいと必死で後を追う。
(動きやすい服装にしておいて、よかった・・・っ!)
このためにそうした訳ではなかったが、いつものワンピース姿では、すぐに振り切られてしまっていただろう。リリスは、パンツスタイルに足にフィットする長いブーツを履いてきていたことに感謝した。

幾度目かの小道を折れ曲がっていった先に、行き止まりに辿りついた。おそらくは、逃げ急いだ青年が折れるべき道を誤ったのだろう。
そこに立ちはだかったのは、この区域と国内を明確に隔てている堅牢な壁だった。ここは、壁で囲われた区域であるという時点で、逃げ切るには不利な場所だ。道の左手には建物、右手は、ギリギリ跳んで渡るには距離のある川が流れている。
壁に行く手を阻まれた青年は、「くっそ!!」とその壁を強く拳で殴りつけると、背後のリリスを振り返った。リリスは肩で息をしながら、どうにか追いつけたことに安堵していた。
「っはぁ、っはぁ、・・・・っあの、どういう理由があるのか、私には分かりませんが、・・・盗みは犯罪です。まだ、今なら一緒に戻って所定の金額を支払えば、許してもらえます。だからっ・・・」
「ふざっけんな!!そこをどけぇ・・っ!!!」
青年はリリスの言葉に聞く耳を持つ様子はなく、追い詰められたことで、更に頭に血が昇っているようだった。青年の胸元から、きらりと銀色の光が飛び出す。それが、刃の輝きだと気がついた時には、青年はリリスに向かって一直線に走り込んできていた。
「!!」
咄嗟に、人間の反射的な反応として手が前に出ていた。
前に出した手の指の隙間から見えた青年の姿に、リリスは恐怖を覚える。銀色に輝く刃が閃き、それを握り締めた青年の腕が大きく振りかぶられ、それが自身へ向かって振り下ろされるところまで、頭の中でイメージが像を結んだ瞬間、リリスは、自分でも不思議なほど自然に、一歩後ろに下げた右足に力を入れ、衝撃に備えるように硬く地面を踏みしめていた。次の瞬間、青年の刃がくるであろう軌跡を避けるようにして、己の手を青年に向けて伸ばすという動作を彼女が頭の中で半ば無意識に思い描いた時、視界の右側から、突如、リリスと青年の間を割るようにして、別の銀色の光が差し込まれる。

キィィインッ・・・!!

金属のぶつかり合う激しい、悲鳴にも似た音が鼓膜を震わせると共に、リリスの目の前に長い茶色のローブを羽織った後ろ姿が現れる。マントの裾が翻るが如く、風になびくそのローブに、リリスは一瞬、時が止まったような錯覚を覚えた。



アデルが、窓口で宿屋の当てをつけて、外に出ると、通りは俄かに浮き足立った雰囲気になっていた。
(何かあったのか・・・?)
あまり目立つ行動はとりたくないと思いながら、道の反対側にある本屋へと向かう。
本屋の前にも人だかりができており、店の主人が何やらこの区域の警備の者と話をしているようだった。瞬間、嫌な予感が襲い、足早に近づくと、店主と思しき男に声を掛ける。
「すみません。ここに、リュックを背負った赤茶色の髪の女の子は来ませんでしたか?」
「!あんた、あの子のお連れさんか!それが、今しがた、盗人をその子が見つけてくれたんだが、逃げられてね。その子も、そいつを追って行ってしまったんだよ。」
「なっ!?」
予想もしなかった事態に、アデルは思わず2秒ほどフリーズしてしまってから、慌てて聞き返した。
「彼女は、どっちへ?」
「この道をまっすぐ行って、3つ目の角を左に入っていったところまでは見たんだが、その後は・・・」
「分かりました。ありがとうございます。」
そう簡単に返して、アデルはすぐにリリスが盗人を追って行ったという道を駆けていった。

(全く、はぐれるなと言った傍からこれか・・・っ!!!)

子供扱いしてほしくないと言った彼女を思い出しながら、やはりまだまだ子供だと心の中で返して、とにかく無事でいてくれと、祈るような気持ちで、地面を蹴った。


To be continued....

No.529|GardenComment(0)Trackback

『Garden』-第一章:魔女の岬に住む少女⑧-

2016/02/17(Wed)21:08

「ガーデン・・ハート国・・・。」
リリスはゆっくりと咀嚼するような速度で、その言葉を口にした。
信じられないというよりも、何を言われたのかまだ理解できていないという顔で、見開かれた瞳は、アデルの次の言葉を待って動かない。

「俺は、国の使命を帯びてこの町までやってきた。
その使命は、今言った通り、ここに住んでいるという魔女の存在を確かめ、その力をこの目で見極める事。そして、その人物が我が国にとって、必要な人材であるのなら、共にガーデンハート国へ来てもらうよう交渉すること。」
「で、でも今、アデルさんが探していた魔女は、祖母のことだと・・・」
「初めに耳にした噂は、君ではなく、君のお祖母さんのことで間違いないだろう。だが、彼女はすでに亡くなっていた。そして、元の主がいなくなってしまった魔女の家に・・・この場所にいたのは君だった。だから、君がその噂の魔女なのではないかと思い、君のことをずっと観察していた。君の能力がどういったものなのか、それを見極めようとしていたんだ。・・・・俺の方こそ、君を騙すような真似をして、すまない。」
アデルは、静かに頭を下げる。ただ本当に申し訳ないという気持ちからの行動だった。
「君は、俺が初めに探していた魔女ではなかったかもしれない。だが、先程の力を見て、君のその能力は、我が国に必要なものだと感じた。だから、もしも君が嫌でなければ、俺と共に来てほしい。」
「・・・・。」

しばらくの沈黙の後、リリスの右手がそっとアデルの左腕に触れた。
ハッとして顔を上げたアデルの前には、眉根を下げ、戸惑いを隠せないでいるリリスの顔がある。
「・・・顔を上げてください。その・・・私にはそんな、・・国のために役に立つような力は、ありません。」
困惑しているようでもあり、どこか寂しそうでもある。リリスは、なんとも形容し難い複雑な表情をしていた。リリス自身も、なんと言葉を返そうか迷いながらしゃべっているのが窺がえる。
“そんなことはない。”アデルは反射的にそう返そうとしたが、直前で思いとどまった。彼女の能力の事を、先程初めて目にしたばかりの自分が彼女以上に分かっているはずなどなく、それを自分が語るというのは、いかにもおかしな話だと思えた。
そして、己の使命を打ち明け、彼女に同行を願い出ておきながら、どこか頭の片隅で、彼女のこの生活を、平和な暮らしを壊してはいけないとも考えていた。
たった1週間。そんな短い期間だったが、アデルはリリスが暮らすこの町を、この場所に暮らす人々を、生活を、その空気を、いつの間にか好きになっている自分がいることにも気が付いていた。
自分に、それらを壊すような権利はない。

「・・・薔薇の、話をしたことを、覚えているか?」
「!」
「その花を国花とする国、ローズ国・・・あの国の国王は、強欲で、元来争いを好む。それは、その地位の者が何代代替わりしようと変わることはなかった。
今から25年前、世界中で醜い小競り合いが続いていた時代は終焉を迎え、ガーデンハートが世界の中央に位置し、議会を開く場を設けた。今では、よほどのことがない限り、大規模な戦争は起こらない。しかし、あの国だけは例外だ。辛うじて議会へは出席しているものの、他国と足並みをそろえる気は全くないと言っていい。そして未だに、隣国への侵略行為を続けている。」
リリスは、祖母の作ったこの庭に、唯一咲くことのない花の姿を頭の中に思い描く。それがこの庭に咲いた時、世界は真に平和となるのだと、そう語っていた花。
「あの国は、他国の技術を奪うが自国の技術を絶対に外には出さない。様々な手段を講じてきたが、有事の際にも、完全に自給自足できるシステムを構築している上、様々な点で一国の中に力を持ちすぎていて、下手に手を出すことも出来ない。
そして、君のお祖母さんが言っていた通り、ローズ国と・・・あの国とどう向き合うかが、この世界が平和を手にするための大きな課題だ。」
つい昨日、裏庭のベンチで海を見つめながら語っていた時と同じ顔だと、リリスは思った。その瞳に宿る力強い光は、彼の使命に対する、固い決意の表れだ。
涼しげなダークグレーの瞳に、ゆらりと灯る熱を感じて、リリスはそれをじっと見つめる。

「今、ガーデンハートは、世界各国から様々な知識人、技術者、科学者などに協力を仰ぎ、ローズ国に対応出来るような国力を手に入れようとしている。これはあくまでも、他の全ての国との協力体制を整え、ローズ国に立ち向かうための手段であり、その下地作りだ。ガーデンハートが中立連絡国家であることは、変わらない。」
そこまで話して、アデルはふっと息を吐いた。そして、視線を下げると、ゆっくりと立ち上がる。もう一度目が合うと、先程まで決意と熱意に燃えていた瞳は、すでに平静の色を取り戻していた。穏やかな凪を思わせる双眼に、リリスは自分の胸がトクリと小さく跳ねるのを感じた。それはまるで、自分の胸の奥に燻る、まだ火種とも言えないような微かな想いまで見通しているように思えたからだ。

「・・・君は、どう思っているのか分からないが・・・・少なくとも俺は、君のその力が、世界を平和へと導く大きな力になると思っている。」

そう告げると、アデルは入ってきた木戸の方へ踵を返した。
「っつ//アデルさん・ッ・・!」
リリスが慌ててその背を追おうと立ち上がりかけると、それを制するように、アデルは扉の前で一度足を止めた。

「俺は、明日の朝1番に出る乗合馬車に乗って、この町を発つ。」
「!」
「もしも、俺と一緒に来てくれる気持ちがあるのなら、ここから森を抜けた先にある公道まで来てくれ。馬車がそこを通るはずだ。・・・無理強いをするつもりはない。来たくなければ、来なくていい。」
突き放すような言い方になってしまったかもしれないと、アデルは己の言葉の足りなさに、舌打ちしたい気分になった。背を向けているため、リリスの表情は窺い知れない。
「急ですまない。その、・・・本当は今日、ここには、君に別れの挨拶をしに来るつもりだった。それがまさか、こんな形になるとは思っていなかった。後味の悪い挨拶になってしまい、併せてすまないと思っている。・・・・明日、君が現れなかったとしても、君の力の事は、決して口外するつもりはない。・・・これだけ隠し事の多い人間を信じろというのも可笑しな話だろうが・・でも、信じてほしい。この町の人々が守り続けてきた秘密は、秘密のまま。国には“魔女はいなかった”と、そう報告するつもりだ。」
木戸に手を掛けたところで、逡巡する。アデルは、静かに後ろを振り返った。

「君の入れてくれたアッサムティー・・・とても美味しかった。ありがとう。」

微笑もうとしたはずなのに、普段あまり使わない筋肉に無理をさせたためか、引きつったピエロのような笑顔になる。
押し開けた木戸は軽く、慣れない引きつり笑いの様な音を響かせながら開くと、パタンッと、まるで外気と内気を明確に分かつかのように、それは大きな音を立てて閉まった。






『おばあちゃん!おばあちゃん!』
鈴の音のような声に呼ばれ、白い部分が多くなった髪を一纏めにした後ろ頭が振り返る。
コロコロした飴玉みたいな瞳を輝かせて、紅茶色の髪の幼い少女が本のページの端を小さな両手でぎゅっと掴んで立っていた。
『おばあちゃん!見てください!このお花、とってもきれいなの!』
そのページを広げて見せようと、老女の太もも程の高さしかない少女は、懸命に身体をピンと縦に伸ばしている。広げられたページを目にした老女は、瞬間、驚いた顔をして、それからはははっと快活な声を上げて笑った。
『それはね、“薔薇”という花だよ。』
『ばら?』
『そう。この国からは遠く離れた、ローズ国の国花だ。』
少女の頭を撫でる手は、長年の庭仕事で染み込んだ、お日様をたっぷりと浴びた土の匂いがする。すっぽりと頭を覆う手袋みたいな大きな手。小さな少女には、その感触がとても力強く感じられた。
『わたし、こんなきれいなお花、はじめて見ました。お庭のどこにも見たことがなかったから。ねぇ、このお花は、いつ咲くの?』
純粋な眼差しを受け止めて、老女はゆったりと膝を折る。少女と同じ高さに目を合わせると、さらりと指の間を抜けていく髪の感触を楽しむように、少女の前髪をすくった。
『・・・その花はね、この庭には咲いたことがないんだ。』
『おばあちゃんでも、咲かせたことのないお花があるの?』
少女の目は、まんまるに広がる。
『そうさ。あたしにだって、出来ないことがある。この世界を平和にするなんて、それこそ夢のような芸当はね。』
『?』
少女は、祖母の口から突然飛び出した“へいわ”という言葉に、小首を傾げた。
今はお花の話をしていたはずなのに、何故祖母は突然、“せかい”と“へいわ”について話し出したのだろうかと。
不思議そうな顔をする彼女に、老女は口元に悪戯を思いついた子供のような笑みを浮かべて、本に描かれた挿絵の薔薇に、トンッと一つ指をついた。
『あたしはね、たった一度だけ、この目で本物のこの花を見たことがある。』
『ほんと!?』
『あぁ、本当さ。それはそれは、綺麗な花だった。』
少女の瞳に、憧れの光がキラキラと溢れた。“せかい”や“へいわ”のことなんて関係ない。ただ純粋に、その美しいモノを自分も見てみたいという希望が、流れ星のように少女の身体中から溢れ出している。
『わたしも!見てみたいですっ!』
老女はその眩しい輝きににっこりと目を細めながら、さらりさらりと少女のまあるい頭を撫でた。

『あたしも、この目で見てみたいねぇ。この庭に、薔薇の花が咲くところを・・・。』



「・・・・おばあちゃん・・。」
リリスは、細い指先で挿絵の花の輪郭をそっとなぞる。
初めて彼女がこの本の中で薔薇の花を目にした時から、もう10年近くが経っていた。今のリリスには、祖母の言っていた“世界”や“平和”の意味も、もうすっかり理解できる。
祖母が作ろうとした魔法のような庭の、最後の夢。そして・・・・
(私の夢・・・・・)

“いつかこの庭に薔薇の花が咲いた時には・・・その時には、世界は平和になるんだ”

祖母の言葉を思い出し、リリスはやつれた革表紙の本を、そっと胸の前に抱き寄せた。






「色々と、お世話になりました。」
まだ日の昇りきらない時間帯だというにもかかわらず、宿屋の女将と息子は、わざわざ店先までアデルを見送りに出てきてくれていた。
「いいんだよぉ!そんなにかしこまらなくったって。あたしたちも、あんたと話ができて、楽しませて貰ったんだから。なにはともあれ、気をつけてお帰りなさいな。」
「また、近くに来た時には、寄ってくれ。」
二人と固く握手を交わすと、アデルはそれほど多くはない荷物を肩に、一人、乗合馬車に乗り込んだ。年老いた御者は、アデルが座席に座ったのを確認し、パシリとひと振り、手綱をなびかせ、馬車を発車させる。
パカシャッパカシャッと、独特のひづめの音を響かせながら、アデルを乗せた乗合馬車は、朝霧で霞む町の中央道を走り出した。見送りの二人は、アデルが見えなくなるギリギリまで手を振ってくれていたが、それも霧の向こうに霞んで消えていく。

(・・・・来ては、くれないだろうな・・。)

岬の方角を眺めながら、アデルは公道を走る馬車のリズムに身を任せる。始めの内は問題ないが、長時間座り続けていると、かなり尻と腰に響くことを、この町へやってきたときに嫌というほど学んでいたが、今はこの一定のリズムが、どこか心地よく感じられた。

昨日、リリスとなんとも苦い別れ方をしてしまってから、後味の悪い気持ちばかりが残るかと思われたが、今朝起きた時から、不思議とアデルの心は落ち着いていた。
今となっては、あのような別れ方になってしまったことが、逆に、彼女のことを思えば良かったのではないかとさえ、思っている。
来てもらえるものならば、それはもちろん嬉しいことだが、しかしそれは同時に、今の彼女の平和な生活を壊してしまうことになる。そして、彼女や、町の人たちが守ろうとしてきたその力を、外の世界に出してしまう。
(それは、果たして正しいことなのだろうか・・・・)
今の彼には、その判断がつかなかった。
世界の平和のために。そう言ってしまえば、それはきっと正しいことなのだろう。しかし、それはあくまで、行動を起こす本人が決めること。アデルは、そして、ガーデンハートは、決して、誰かを傷つけるような平和を望んでいるわけではない。

気がつくと、すっかり親しみを覚えてしまった町の風景は、徐々に後ろへと流れていった。まだ、どの店先も開店の準備には早い時刻で、聞こえるのはそこを走る馬車の音だけ。
その乗合馬車にも、アデル以外に乗る者はなく、馬車は一定の速度で霧の中を進む。
いつの間にか町並みも閑散とし、町から少し外れた左手にうっすらと教会の十字架が見えた。ここから先は、建物のない森の中の道となる。

パカシャッパカシャッパカシャッ

傾斜のついた道も、その馬力でスピードを落とすことのないまま、両側の景色は完全に森林に変わっていった。
アデルは、じっと一つの方向を見つめているが、すでに、左手の森の向こう側になってしまった魔女の岬は見えない。

パカシャッパカシャッパカシャッパカシャッ

両側に森を配す公道の左手前方に、薄く、道とは思えないほど心許無い道が、森から公道へと伸びているのが見えてきた。
それは、アデルが初めてこの町に・・・魔女の岬に来た時に降り立った、森を突き抜け岬へと続く、獣道のようなか細い道だ。
そこに、リリスの姿は、ない。

パカシャッパカシャッパカシャッパカシャッ

淡く霧が立ち込める中とはいえ、見間違うような距離ではない。いくら目を凝らそうとも、やはり、近づいてくるその道の上に立っている者はいなかった。
「・・・・。」
アデルは、胸元から懐中時計を取り出す。時刻を確認すると、まだ5時を回って間もない。

パカシャッパカシャッパカシャッパカシャッ

「あの、すみません!」
揺れる馬車の上を、アデルは少しフラつきながら進み、前の御者へと近づいた。
「すみません!」
「!ああ?」
耳が遠かったのか、やっとのことで声に気がついた老人は、すぐ後ろに立っているアデルを見上げるようにして振り返る。
長い眉毛で覆われてしまった目の表情は伺えない。
「なんだね?」
「次の町までは、まだ時間に余裕がありますか?」
「はぁ。まぁ、こんな朝早くに乗ってくような人は、この辺に住んどる人間には、あんまりおらんでな。あんたみたいな、他所のとこから来た人くらいのもんだで。そうそう、急がんけんど。」
「急がないようでしたら、そこの横道の前で、一度馬車を止めてもらってもいいですか?
3分だけでいいんです。3分経ったら、もう行ってもらって構いませんから。」
「はぁ。それは、まぁ、ええですけど。」

パカシャッパカシャッ・・・・

御者は訝りながらも、小さな横道の前で、馬車を止めてくれた。
アデルは、馬車から地面へ降り立ち、道の先を見つめながら待つ。
3分。それで何が変わるとも思ってはいなかった。でも、せめて最後に一言、昨日のようなものではない。別れの挨拶だけでも、彼女は言いに来るのではないか。今朝までは、あんな別れ方で良かったなどと思っておきながら、心の底ではそんな淡い期待を持たないわけではない。
(・・は、・・・俺も案外、優柔不断だな。)

手にした時計の規則的な音が、静かな霧の森の中で、やけに大きく聴こえていた。
ブルルッと馬の嘶きの声に、御者が「どうどう」とその横腹を撫でる。
「あんた、誰か待っとりんさるんか。」
「・・・・。」
カチコチカチコチと、時計の針は時を刻んで進んでいく。見つめる先の森は、微動だにせず、いつまで見つめていても、何も、変わることはなかった。

カチコチカチコチカチコチカチコチッ・カチッ・・・――――――

アデルは小さく息を吐き、一度じっと目を閉じると、懐中時計を胸元に仕舞う。
「・・・・行きましょう。」
「もう、ええんかい?」
「えぇ。無理を聞いてくださって、ありがとうございました。」
「誰か、待っとったんじゃ・・・。」
「いえ、・・俺の勘違いだったみたいです。」
そう答えるアデルに、「はぁ、そんだったなら、ええけど・・・。」と御者もそれ以上は口を挟まなかった。
森に背を向け、再び、乗合馬車のステップへ足を掛けた。




「待ってくださーーーい!!」



「!!」
「おぉ?」
突如、森の奥から聞こえてきた声に、御者の毛深い眉が上がる。
アデルも思わず、ステップに乗り上げかけた足を止めて、地面の上へ身体を戻していた。慌てて振り返れば、鬱蒼とした森の奥から、何やら物凄い勢いで駆けてくる音がする。というか、人一人が駆けてくるだけで体感的に物凄いと形容されてしまうような音が出ているというのは、おかしい。
これは、どう考えても嫌な予感しかしない。
生い茂っている草木の所為で、奥が見えない森の中から、パッと、言葉で言うならば本当に“急に”少女が一人姿を現した。
「!リリス!」
「あ、アデルさん!」
リリスは、アデルの姿を見留めると、一瞬で笑顔になり、そのままの勢いで駆け寄ってくる。いや、そのままの勢いじゃ駄目だろうということに気がついたときには、もう止めるための声を掛けるタイミングを見事に逸してしまっていた。
「あ、のっ、すみません!足が止まりませっ・・・わはぷっ!!」
「待て!だから、もっとスピードをっ・・・うがっ!!」
ドンッと、分かりやすい音を立てて、アデルはその場に尻餅を付いた。それはもちろん、リリスが真っ直ぐ、アデルに向かって突っ込んで来たからで。その彼女の身体を全身で受け止め、ついでに、勢いでゴチンッと後ろ頭を、先程足を掛けようとしていたステップに強かに打ち付けた。
それこそ何度目かの既視感を覚える。

「はばあっ!あ、アデルさん大丈夫ですか!??;;」
「いっつ//・・・君は、いつも先を考えずに突っ込んでくるな・・・・。」
「す、すみません;;あの、お怪我は、今、頭を打ったんじゃ・・・」
あわあわとアデルの身の心配をするリリスに、アデルはふっと小さく息を吹き出した。
「そんなに慌てなくても大丈夫だ。俺は、君が思っているよりもずっと頑丈な方だし、それに・・・誰かのおかげで、ここへ来てから、こういったことにはもう慣れた。」
「あ、え、あの、す、すみません・・・///」
赤くなって下を向いてしまったリリスに、アデルは気の抜ける感覚を味わう。これも、もう何度目のことなのか。最早、数えるのも馬鹿馬鹿しい。

「・・・その、そろそろどいてもらえると助かるんだが。」
「え、あ!はい!今、どきます!///」
慌てて、リリスはアデルの上から立ち上がった。それに続いて立ち上がると、アデルは漸く落ち着いてリリスの姿を見ることが出来た。そこで初めて、彼女の服装が、自分の見慣れたそれとは異なっていることに気がつく。
いつも着ていたシンプルなワンピースではなく、動きやすさを重視した短いパンツに折り返しのないスタンドカラーのシャツと、その二つを繋ぐように胸まで覆うオーバーコルセット、そして、編上げの長いブーツを履いたスタイル。
背中には、大きなリュックを背負っていた。
いつもよりも衝撃が大きく感じたのは、そのリュックの重量分か。などと、冷静に考えていたが、問題はそこではないと、改めてリリスの顔を見る。

「リリス、君は・・・・」
「私、アデルさんと一緒に行きます。」
「!」

リリスは、いつもの澄んだ瞳に決然とした意思を宿して、アデルのことをしっかりと見据えた。
「今まで私は、ただ漠然と・・・祖母の抱いていた夢を、いつか私が叶えられたらいいと、そう思っていました。でもそれは、あそこで、あの場所で、ただじっとしているだけでは、叶わない夢なんだということに気がついたんです。
アデルさんも言っていたように、ネリネ国は・・・ラントの町は、とても平和です。もちろん、エミリーちゃんのような戦争孤児もいますが、それでも、きっと他の国と比べると、それほど大きな争い事もない、静かな場所なんです。だから私は、これまで、この世界の平和のことや、外の、他の国の戦争のことなんて、それほど深く考えたことがありませんでした・・・。」
視線は一度、静かに地面へ向けられた。そこに何があるということではなく、何と言えば自分の考えたことが相手に伝わるだろうか。リリスは、ゆっくり呼吸を整えながら考える。
「・・・私、アデルさんと出会って初めて、ちゃんと外の世界のことを、考えてみたんです。この世界には、ネリネ以外にも、沢山の文化が違う国があって、祖母の作ったあのお庭のような、色とりどりのお花の名前を持った国があって、そこではきっと、私の知らない様々なことが起きている。お花が、それぞれ個性を持っているように、きっと色んな個性を持った国が、この世界にはあるんですよね・・・・私は、それをもっと知りたい。この目で見てみたい。・・・そう、思いました。」
リリスは、そこまでを自分でも噛みしめるように言葉にすると、再び顔を上げ、アデルのことを一心に見つめた。己を奮い立たせるようにして、両手をぎゅっと力強く握りしめる。
「・・・・・私の力が、どれほどこの世界のためになるのかは、分かりません・・・。
でも、誰かが世界の平和のために、この力が役に立つと言ってくれるのなら、私は、それを信じてみようと思いました。祖母の夢を叶えるために、少しでも自分に出来ることがあるのなら、私はそれをしたい・・・。」
リリスの瞳の中に、幻想的な色彩が滲む。晴れてきた霧の隙間を縫って降りた、太陽の光の反射か。はたまた、彼女自身の持つ不思議な力によるものか。
それは、淡く深く、碧や金の砂粒を散らし波打つ紅茶色の海の様に、キラキラと瞬いた。



「アデルさん、私を、ガーデンハート国へ連れて行ってください。」



・・・・武者震いと、いうのだろうか。今確かに、自分の身体の中を、一種の電流のようなものが走った感覚があった。
アデルは自分のことを、本当に優柔不断な天邪鬼だと思う。
(あんなに、彼女のためにならないと、そう納得していたはずなのに・・・・。)
そのはずだったのに。
彼女の言葉を聞いて、ただ単純に嬉しいと、そう確かに思っている自分がいる。
この煌らかな瞳を持つ少女を世界へ連れ出すということが、一体どういう意味を持つのか。
(それは、まだ分からない・・・でも・・・・)
でも、これはきっと、この世界が踏み出す、意味のある大きな一歩に違いない。
自然とこみ上げてきた笑顔を、素直に表情に反映して、アデルは静かに右手を差し出した。

「よろしく頼む。」
「!は、はい!こちらこそ、よろしくお願いします。」

強く握り締めたその手は、ほっそりと小さく、ごく平凡な少女のそれだった。
でも、それはどこか、優しい力を感じさせる不思議な温かさを持っていた。


第一章:魔女の岬に住む少女・END


No.523|GardenComment(0)Trackback

『Garden』-第一章:魔女の岬に住む少女⑦-

2016/01/29(Fri)00:03

『当てが外れた。任務を終える。
 明日には、こちらを発つつもりだ。迎えを頼む。  ―アデル・ガーランド―』

手紙に封をすると、アデルは小さく息をついた。
ここへ来てから、もうすぐ1週間が経とうとしていた。任務のために訪れたこの町で、意図せず休暇のような過ごし方をすることになってしまったが、任務の成果がないながら、骨休めになったという点では、そう無意味なものでもなかったのかもしれない。

「明日にはここを出ていくなんて、随分急な話だねぇ。ま、またいつでも遊びに来なさいな。そう観るところもない町だけど、のんびり老後を過ごすには最適の場所だよ。」
宿屋の女主人は、そう言って快活そうに笑うと、親切に郵便局の場所を教えてくれる。
朝食の席では、宿屋の一人息子が、歳の近い話し相手がいなくなるのが寂しいと、ほんのり残念そうな様子を見せた。
たった数日の間で、宿泊先のオーナーとこれほど気さくな関係を築けたのは、この町が初めてだと、アデルも表情を柔らかくして、それに答える。何度も任務であることを忘れそうになるという窮地(?)に立たされたことも確かだ。それだけ、本当に心休まる良い町だった。

ここで過ごした数日、任務の目的であるリリスの様子をずっと観察してきたが、少なくとも自分の見るところ、彼女はたった一人であの“魔女の岬”と呼ばれる丘の上の家に暮らしていること以外に、普通の少女と変わるところは見られない。
ここに来てからの目立った変化といえば、自分の知識にトマトの苗の植え方と飲み物の種類に関する情報が増えてしまったことくらいだ。アッサム、カモミール、アールグレイといった名称は、アデルの辞書の新しいページに記されていた。
特に、カモミールは要注意だ。通常ならば、そんなところに分類されるものではないはずの飲物は、彼の中では危険物扱いの項目に加えられている。

「おう、ガーランドさん。今日は、良い苺が入ってるよ。買ってかないかい。」
「あ、いや・・・;;」
「ガーランドさん、そこの川で今朝釣れたばかりの鮎があるよ!どうだね、今夜の夕飯に女将へ頼んでみたら。」
「え、えぇ、ありがとうございます;;;」
本当に、気を許しすぎた。
町中を郵便局の方向へ向かいながら、アデルはまだ宿から出て数メートルも進んでいないというのに、早くも疲れを感じていた。なにしろ、行く先々で声がかかる。ここへ来てから、リリスと連れ立って町を歩き回ってしまった所為か、やたらと町の人から声をかけられるようになってしまった。顔と名前を覚えられてしまったこともあるが、何より、彼がリリスの客人だと聞いたせいか、みんながみんな、アデルに対して妙に親切に接してくるのだ。嫌われて追い払われることに比べれば幾分かましだが、隠密行動をとるべき立場のアデルからすれば、非常に不本意なことだった。
(やはり、ここからは一刻も早く立ち去らなければ・・・)
手に持った手紙をぐっと強く握り込む。


「はい。確かに受け付けました。」
眼鏡をかけても尚、目を細めながら宛名を確認する老眼の紳士は、そう言ってアデルから受け取った郵便物を自分の後ろの棚の中へと入れた。背はもう随分と縮んでしまっているように見受けられるその老人を、アデルが”紳士”と心の中で称したのは、その老人の服装が年の割に洒落ており、且つ飾り過ぎず、小奇麗に整えられていたからだ。
センスの良い奥さんがいるのか、その人自身がそういった部分に気を使う性質なのかは分からないが、この人物の柔らかな対応からして、良い歳の重ね方をしてきたのであろう。
この町の住人は、どの人も違わずそういった空気を纏っている。


『ここのところ、アデルさんが毎日ここへ来てくれることが嬉しくて。アデルさんは、ここでのお仕事が終わったら、帰っていってしまうんだということを考えたら、なんだか急に寂しくなってしまいました。』


(「寂しい」・・か・・・・)
ほんの1週間のはずが、なんだか随分と長い時間をここで過ごしたような気がする。
アデルは胸の中に浮かび上がる久しく感じた事のなかった気持ちに、多少なりとも驚いていた。寂しいなどと、そう思ったのは一体いつ振りだろうか。下手をすると、かなり幼少の頃まで記憶を遡らなければいけないかもしれない。
そんなことを考えながら、すでに足は、自然とお決まりの場所へ向かう。今日ばかりは「任務」というよりも、彼女へ別れの挨拶をするべきだという気持ちと、久方ぶりの「寂しさ」も相まって、無性に彼女の出してくれるお菓子や紅茶を飲みたいような気がしていた。

そんな時だった。

「誰か・・・・っ!!!!」

町の中央を通る太い道に出て、丁度岬のある方角へ足を向けたのと同時。
突然、左手の横道から一人の女性が駆け込んできた。30代前後で教会独特の衣服を身に纏ったその女性は、相当慌てて走ってきたのか、かなり息が上がっていたが、それに反して、顔色はやけに青ざめていた。
アデルも含め、通りを歩いていた者が皆、足を止めて、彼女に注目した。近くの店先にいた主人が顔を出して「なんだ、シスター。そんなに血相を変えて、一体どうしたんだ?」と呑気な調子で声を掛ける。

「誰か・・っ!子供が・・・!子供が、崖から落ちて・・・っ!!!/////」

「!!」
瞬間、通りが俄かにざわめいた。「子供が!?」「どうして!!」といった声が一斉に飛び交い、さざ波の様に駆け巡る。呑気な声を出していた店主も、驚きで声を失っていた。
ざわめきで満たされる通りの真ん中で、女性はひたすら「誰か」と狼狽えながら、息も苦しそうに助けを求めているのだが、動揺が独り歩きしたまま、周囲の人々はその存在が目に入らなくなってしまった様子で、近くの者と言葉を交わすことに夢中だ。
アデルは女性の傍に駆け寄ると、震えるその肩に手を置いた。

「場所は?」

その時、一瞬の躊躇もなかったことを、アデルは後々思い返す度に不思議に思うことになるのだが、この時は自分でも驚く程自然と足が前へ出ていた。
アデルの呼び掛けに驚いた様子で、しかしなんとか息を呑み込むように喉の奥へ追いやると「あ、む、向こうの・・・・」と、女性はやっと口にした。元来た道の方向を差す指先は酷く震えていて、どう見てもまともに対処が出来そうな様子ではない。アデルは、へたり込みそうになっている女性の身体を支えながら立ち上がらせる。
「そこまで案内してください。」女性は、無言で震える頭を縦に振る。
「誰か!長い頑丈なロープを!!それから、力のある男性陣は一緒に来てください!人手がいります!!!」
アデルの呼び声に、漸く事態に対処することへと頭が働き出した街の人々は、一斉に声を掛け合う。
「ロープだ!誰か、ロープを!!」
「家の裏に、頑丈なのが1本ある!」
「俺も一緒に行くぞ!」
周りの人間たちが、慌てながらも対処するために動き出したのを見ると、アデルは女性の目を見て力強く頷いてみせた。それに対して、ほんの僅かだが、女性も気を取り戻してきたのか、先程よりもはっきりとした頷きを返した。
「こっちです・・・っ!!!」
女性に続いて、アデルと町の男たちが崖の方へと駆けていく。

問題の崖は、町の中央道から横道に折れて、海側へ向かい、家や店が立ち並ぶ区画から十数m程離れた場所に建てられた教会の脇を過ぎたところにあった。

この町は一本の中央道を挟んで両側に形成されており、その更に外側には、中央道と平行した形で片側が森、そしてもう片側は一面海に面している。海に面した陸地は、一番低い位置に港があり、町から少し外れた教会の方角に向かって陸地が高くなっていた。教会を通り過ぎて、中央道を更に丘へと登った場所に位置する魔女の岬は、町の中では一番の高台になる。
教会の真裏は、リリスが暮らしている小さな家と同様に、海に面した切り立った崖となっていて、途中までは木製の杭とロープによる簡易的な囲いが施されているのだが、それは、ある一点で途切れてしまっていた。
「あそこは、去年の嵐の時に、波に呑まれて柵がもってかれちまった所じゃないか!」
「だから、早いとこ、修理しておこうと言っとったんだ!わしは!!」
男たちが声を荒げる中、アデルはすぐに崖の傍へ近寄ると、その下を見下ろす。

町の住人たちが話している波の所為かは分からないが、陸地に向かって抉れた形状になっている崖は、すぐ下まで海水が入り込んでおり、海から打ち寄せる波がその壁面へと当たっては砕け、白い小さな泡が幾つも作られていた。
その切り立った崖の途中、ギリギリ波に呑み込まれない高さに、崖から突き出た岩棚がある。その上に小さな体が横たわっているのが見えた。

裾の広がった服の形状からスカートを履いているのが分かった。髪が2つに束ねてあることが、辛うじて確認できる。女の子だ。
子供は、ピクリとも動く気配がなく、ぐったりとしているように見えた。気を失っているだけならばいいが、どこか怪我をして体を動かすことが出来ないのだとしたら、その怪我の度合いによっては、早く医者に見せなければならない。
「ロープを。」
アデルは目測で、少女までの距離が約20mだと推測すると、右隣りから同じように崖下を覗き見て、すっかり青ざめてしまっている細身の老人へ促すように手を差し出した。
老人は慌てて、手にしているロープをアデルへと手渡す。

己の腰に巻いたベルトへロープの片側を手際よく結びつけ、崖から少し離れたところに、見るからに地に深く根をはっている樹木を見留めると、その太い幹へとロープを回した。
その間、当然のことながら、このような事態に慣れているはずのない町の男たちは、戸惑いの表情を浮かべ、ただアデルのすることを見つめている。
「すみません。この木へ回したロープの反対側を持っていてください。これから、俺が下へ降りるので、ゆっくりとロープを降ろしていってくれますか。」
アデルがそう声を掛けると、男たちは慌てて駆け出し、こわごわとした手つきでロープを握りしめた。皆一様に、今まさに、あの切り立った断崖絶壁へ降りていこうとしている青年に不安そうな視線を送る。
「あ、あんた、本当にこんなロープ一本で大丈夫かね。わしには、その、どうにも・・・」
「頑丈なロープなんでしょう?」
先程まで、我が家のロープが一番と言わんばかりに粋がっていたはずの老人へ、確かめるようにそう声を掛けると、老人はぐっと一度口を噤み、硬い表情で静かに答えた。「・・・大丈夫だ。」「それなら、問題ない。」
あまりにもあっさりとそう言い切ったアデルの目が、確かに自分たちを信頼していることを見て取ると、男たちの表情は一気に引き締まった。

「ゆっくり!少しずつだ!!」
その声に応えるように、じりじりとロープが降ろされる。アデルはベルトから伸びるそれを両手で持ち、後ろ歩きに壁を伝いながら、目標に対して背を向けた格好で、ゆっくりと崖の下へ沈んでいく。10人ほど集まった人員のうち、力に自信のある7人が木に回ったロープの先を持ち、残り3人は、崖を降りていくアデルの様子を見ながら、ロープを降ろす男たちに声を掛けていた。
額に脂汗を浮かべながら見守る住人達に、アデルは「大丈夫だ」というように強く、何度も頷いてみせる。
「あと少しだ!!」
漸く足が岩棚に掛かるというところで、アデルはそこに横たわっているのが、つい先日、リリスがレースを納品しているという老婆の店で出会った、孤児院の少女であることに気が付いた。
(確か、エミリーと言っていたか。)
曖昧な記憶を呼び起こしながら、アデルは少女の状態を確認する。息はありそうだが、アデルが近づいて来ても目を開ける気配はなく、身じろぎ一つしない。
「足が着いたぞ!その辺で、止めてくれ!!」上から見守っていた1人がそう声を掛けると、アデルがしゃがみこめる程度の余裕をもたせて、ロープは止まった。
子供一人が横たわっているだけで、殆どいっぱいいっぱいというスペースに、慎重に足の向きを変えて、手を伸ばす。一度、その小さな口に手を当ててみるが、潮風が強く、か細い呼吸を手のひらに感じ取ることが出来ない。無理な態勢からなんとか胸に耳を当てる。そうすると、とくりとくりと幼い鼓動が鼓膜を揺らした。
(大丈夫。気を失っているだけだ。)
息を詰めて見守っている頭上の人々へ、アデルが手振りで少女に息があることを伝えると、瞬間的にわっと小さな歓声が上がる。しかし、頭上の歓声に耳を傾ける間もなく、アデルはすぐに傍ら少女の方へ向き直った。
(・・・急に動かすのは危ない。どこかにまだ怪我をしている可能性がある・・。)
アデルは、更に慎重な手つきで小さな身体に触れながら、他に異常がないか確かめる。一見したところ、大きな出血のようなものはなく、手足の小さな切り傷、掠り傷のみしか見受けられないが、打ち所が悪ければ、出血はなくとも危ないことには変わりないのだ。

「エミリー!エミリー!!」
声を掛けながら、軽く頬を叩いた。
(意識が戻り、話が出来る状態になるようであれば、一先ず安心しても大丈夫なはずだ。)
「エミリー!聞こえるか!目を開けるんだ!エミリー!!」
「・・・っ」
小さく眉を潜めるような仕草の後、少女は薄い瞼を開けた。
「エミリー!こっちを見るんだ!俺が分かるか?」
ゆらりと羽虫を追うような動きで視線を彷徨わせると、2つのヘーゼル色をした瞳は、アデルの顔の方向を見つめて止まる。虚ろな表情だが、そこにアデルがいることは認識できているようだった。
はくはくと唇が動く。声は出ていないが、その動きから、「おにいちゃん」と動いていることは読み取れた。
「そうだ。前に、リリスと一緒にいた。分かるか?」
頭が小さく上下する。それが了承の頷きととると、アデルはホッと胸を撫で下ろした。
これならば、大丈夫そうだ。そう判断して、少女の身体を起き上がらせようと、幼い背中に腕を回した。

「・・・わた、し・・っごほっ、ごほっごぼっ!」
「!!」

しゃべろうとして咽た瞬間、ドロリと、どす黒い液体が少女の小さな口から溢れ出る。
血だ。
(内臓が、やられている・・・・!)
「誰か!医者を呼んできてくれ!!すぐに治療が必要だ!」
頭上へ声を掛けると、見下ろしていた者のうち、若い1人が慌てて走って行ったのが見えた。エミリーの身体を胸の前に抱き上げ、もう一度声を掛ける。
「ロープを引き上げてくれ!」
降りてきた時とは逆に、今度は壁面を歩いて登るように足を掛けながら引き上げられる。
横抱きにした少女の身体は、あまり体勢を変えないように、ピンと張ったロープと己の胸の間に置き、左腕で頭の後ろを支えた。右手はロープを握りしめ、揺らさぬよう微妙な姿勢を保ちながら、引き上げられる速度に合わせて、足を前へと繰り出す。
その間にも、エミリーは苦しそうにぜいぜいと喉を鳴らしながら、時折、血を吐き出していた。

2人が崖の上に近づくにつれ、その様子が鮮明に見えて来たのか、目に涙を溜めたシスターが真っ青な顔で口元を押さえている。いつの間にか、ギャラリーが増えていた。
教会の他のシスターたち、同じ孤児院の子供たち。町の人々も、周囲を取り巻いている。
手の届く範囲まで上がってきてから、上にいた者に、先に少女の身体を預けた。
続いて、アデルも崖の上に上がる。

「エミリー・・!!」
「大変だ、こりゃ・・・。」
地面に横たえられたエミリーの様子は、痛々しいものだった。
ワンピースの胸元は、吐き出した血溜まりで真っ赤に染まっており、駆け寄ったシスターは泣きながら、鮮やかな胸元とは対照的に、どんどん色を無くしていく小さな手を握りしめて、何度も名前を呼ぶ。
「医者は?」
「今、呼んできとる。」

「おーーーい!!」

医者を呼びに行った若者が駆け戻ってきた。周囲の者は皆道を開け、彼を先へ通すが、何故か彼1人のみで、他に誰かを連れて来た様子はない。
「おい、先生はどうした!」
「それが、今日は朝から、隣り街まで行っちまってるって・・・!!」
「なんだとっ!?」
息を呑むような音が、周囲から聞こえた。シスターは声を詰まらせながら、「そんな・・っ」と信じられないような様子で、絶望の表情を浮かべる。
軍の訓練の延長で得たような応急処置の知識しか持たないアデルには、流石にここまでの重傷者を助ける術はない。
真っ青で、呼吸も浅い少女の様子に、アデルも暗い面持ちを隠すことが出来なかった。



「リリスちゃんのところへ運びましょう。」

突然、落ち着いた、しかしはっきりとした声が、人の間を割って飛び込んだ。
ざわついていた群衆は、一瞬で静かになり、声の元となった人物が、少女の傍にしゃがみこんでいるアデルの目の前に立つ。同じようにその場に屈み込むと、優しい皺の刻まれた手で冷や汗の滲む小さな額を撫でた。
「アデルさん。エミリーちゃんを、岬まで運んでくれるかしら。」
「しかし、内臓がやられています。薬草などでは、とても・・・」
戸惑いの表情を浮かべるアデルに、マルグリットは有無を言わせず「お願い。」とそう一言告げた。他の者へ視線を向けるが、何故なのか、皆、一様にむっつりと黙り込んでおり、彼女の提案を否定する者もいない。こうしている間にも、足下の少女の容態はどんどん悪くなっていく一方だ。
アデルは、少女を横抱きに抱え上げた。


岬への道を、マルグリットとシスター、数人の町の人々がアデルと共に登っていく。
医者を呼びに走ったのと同じ青年が、先に行って事態を伝えてくると魔女の岬まで駆けていった。
聞きたいことは、山のようにあった。医者ではなく、何故リリスなのか。今は町の医者が不在だとはいえ、その次に上がる選択肢が、町はずれで薬草を煎じた薬を作っている少女というのは、どうも納得がいかない。リリスは、薬草を扱っているというその特異性からか、一般人よりは怪我や病に関する知識があるようではあった。この町では、医者を除いて、リリスよりもそういった知識に長けた者がいないのかもしれない。それでも、すぐにでも手術が必要と思われる患者を運び込むのに、最適な場所とは思えない。
(しかし、誰も・・・)
そう、誰もその意見に否を唱えることはなかった。ここにいる誰もが、リリスのもとへ連れていくという選択肢が、今の最善策であると納得しているようなのだ。
そして、何よりも異様だったのは、町の人々の反応だった。
(何故、誰も何も言わない・・・)
魔女の岬へ向かうと決まってから、人々は急に口を閉ざした。反対する者はいないが、それでも、こうすることが本当にいいのか迷っている様子で、何故か時折、アデルの方を気にしている。
自身へ向けられる視線に気づきながらも、アデルは周りに従うように黙々と歩みを進めた。
小屋が見えてくる。


「エミリーちゃん・・・っ!!」
門の傍まで来ると、慌てた様子でリリスが家の中から飛び出してきた。
それに続いて、先に駆けていった青年が、タオルやお湯の入った器などを抱えて出てくる。
駆け寄ってきたリリスは、もう、いつ息が止まってもおかしくない状態のエミリーを見て、深刻な表情で、きゅっと唇の端を噛んだ。
「内臓が傷ついている。一刻も早く手術をしないと、この子は助からない。」
それまでエミリーへと向けられていた視線が、アデルの表情を伺う。いつもの澄んだ色をした瞳が、不安で揺れていることに、アデルは内心で驚いた。ここへ来てから今日まで、そんな顔をした彼女を見たことがなかったからだ。
「リリス・・・?」
リリスは不安の色を隠すように、一度瞼を閉じると、何かを決意したのか、次に開けた時には、いつもの澄んだ表情に戻っていた。

「・・・リリスちゃん。」
マルグリットが、彼女の肩に優しく手を置く。それは、彼女に「大丈夫だ」とそう言っているようで。しかし、マルグリットがそうする意味が、アデルには、何一つ分からなかった。
その様子を周りで見ている人々も、不安を隠せない表情で、成り行きを見守っている。
アデルは、この中で自分だけが現在の正しい状況を把握できていないことに、妙な居心地の悪さを感じていた。
「アデルさん、エミリーちゃんをそこのチューリップ畑の近くに降ろしてください。」
「え?」
「急いでください。時間がありません。」
ここまで来たのは、エミリーを治療するためだ。これから、リリスがそれをするのだということは分かるが、何故、わざわざ地面の上に患者を横たえるのか分からない。だが、時間がないことは確かで、冗談で言っていることではないのは、空気を読む能力に長けた者でなくても分かる。
その言葉に素直に従い、アデルは赤や黄色の花をつけ、ピンと伸びやかに咲いている花たちのすぐ傍にエミリーの身体を横たえた。

「ごほっ、ごほっ・・・・」
口端から溢れる血液を、お湯で絞ったタオルで拭う。エミリーの顔色は、最早生きているのが不思議な程真っ青になっていた。
「もう少しだけ、頑張ってね、エミリーちゃん。すぐに苦しくなくなるから。」
優しくかけられる言葉は、まるでこれから静かに息を止めるかのような響きを孕んでいて、アデルは途端に不安になる。もしかすると、彼女はここでこの少女の命の鼓動を止めるつもりなのではないかと。

「リリ、ス・・・」
思わず、声を掛けようとしたところで、背後に立っていたマルグリットが、掌をアデルの左肩に乗せて、やんわりと押し止める。
自分でもどうしたかったのか分からない、無意識に上がっていた右手を、アデルはゆっくりと降ろした。
そのまま、他の者と同じように、息を殺してリリスの動向を見守る。

リリスは、精神を集中するように深く呼吸した。そして、一度胸の高さへ上げた両手を、静かに降ろしていく。それはまるで、そこにある空気の存在を確かめるような、酷く重たい動きだった。左手はエミリーの腹の上に。右手は、チューリップ畑のすぐ下の地面の上に置かれた。
(何を、しているんだ・・・?)
アデルは、その不可解な行動に眉を顰める。治療と呼ぶには、あまりにも静かで、だが、何か不思議と、神聖で厳かな空気が漂っていた。


――-----------―――ンッ――――


(なんだ?・・・・耳鳴り?)
不意に、不思議な音が聞こえてきた。鼓膜の奥で鳴る高い音。ピンともリンともつかない、脳に直接聴こえているかのような音に、アデルは周囲を見渡す。
辺りの景色に変化はない。見守る人々も、少女の回復を祈って、胸の前で手を組むシスターも、誰も様子が変わったところはなかった。
そして、アデルは視線をすぐ目の前のリリスへと戻して、ハッとする。
リリスの周りが、ほんのりと明るくなっていた。地面から、いや、彼女自身から強い熱量を感じる。リリスの淡い紅茶色の髪が、たゆたうように宙に浮きあがっていた。
(風・・ではない。)
まるで、身体から発せられる蒸気に煽られて、浮かび上がっているようだ。
何が起こっているのか、理解に頭が追い付かない。
エミリーと地面に当てられた彼女の掌から、何か想像もつかないようなエネルギーが発生している。肌に感じられる熱と、目に見えるあたたかな光の存在は、有り得ないと、頭では分かっていても、とても否定できるようなものではなく、何か、とんでもないことが起きているという、ただそれだけが理解できた。

そして、アデルは死の淵に立たされていたはずの少女の変化に気が付く。
(傷が・・・治っていく・・!)
手足や頬にあった掠り傷は徐々に塞がっていき、元通りの滑らかさを取り戻していた。少女の顔に、血の巡る色が差す。紫色に変色していた唇が、赤い紅を落としたように色づいたと思った時には、全てが終わっていた。
気が付くと、リリスの身体から放たれていた熱も光も、なくなっている。先程まで、ピンと背を伸ばし咲いていたチューリップの花が、何故か全て力なく頭を垂れ、枯れ果ててしまっていた。
エミリーが、そおっと、息を吐き出した。その呼吸は、つい先程までの息苦しさを全く感じさせず、喉を塞いでいた血液はどこへいったのか、深い、安らかな呼吸を繰り返していた。胸が緩やかに上下する。
アデルは、目の前で起こったことが信じられずに、ただ、回復したと思われる少女の姿を見つめていた。

「もう、大丈夫です。」
額に汗の滲む顔で、リリスは微笑みながら振り返る。途端に、息を詰めて見守っていた周りの者たちは皆、安堵の息を吐き出し、よかったよかったと口々に言い合った。
「ああ、よかったっ・・・本当にっ///」シスターが、もう体中の水分を使い果たしたのではないかと思うくらい泣いた後だというのに、更に頬を湿らせながら、幼い身体を抱きしめる。目を覚ましてはいないが、少女が穏やかな表情でいるところを見ると、もう、危険な状態でないことは、一目瞭然だった。
「まだ、体力は回復していないと思うので、帰ったら、ゆっくり休ませてあげて下さい。」
「ええ、ありがとうっ、リリスちゃん///」

周りの人間たちが、各々、町の方へ帰り始めた頃になって、アデルは、漸く金縛り状態から、気を取り戻した。慌てて、リリスに声を掛けようと立ち上がる。
「リリ、」
「あ、わ、私はこれを片付けないといけないので、これで・・っ」
「リリス・・!」
伸ばした手の先を肩が掠めた。アデルとは目も合わせず、家から持ち出してきたタオルなどを抱えて、俯きがちに走り去るリリスの背中を、また呆然と見送る。
いや、呆然と見送っている場合ではない。聞かなければいけないことがあった。

「アデルさん。」

後を追おうと足を上げかけたところで、背後から呼び止められ、アデルの右足は再び元の位置に戻される。振り返ると、マルグリットがじっとアデルを見つめていた。曲がった背筋を少しだけ伸ばしたその立ち姿には、毅然とした態度が感じられる。すでに、他の者は丘を下って行ってしまい、今はもう、マルグリット1人が残るのみだ。
「私はね、貴方を買っているの。」

「貴方がどうしてこんな小さな田舎町までやって来たのか。それは、リリスちゃんの・・・貴方も見た、先程の現象が関係しているのではない?」
「・・・・。」
「答えられないことなら、これ以上聞かないわ。きっと、何か大切な事情があっての事なのでしょう。」
マルグリットの言葉は、ゆったりとしていながら、淀みなかった。否定の言葉を挟む余地はない。
「・・・・そう思いながら、どうして俺が彼女に近づくのを許したのですか。今日の事で、貴方が俺を彼女の元へ連れて来なければ、俺は何も知らないまま、明日には、ここを去ることになっていたのに。」
アデルはもう、取り繕うことはしなかった。今それをすることに、何の意味もないということが、はっきりしていたからだ。
マルグリットは眉根を下げ、毅然とした表情から一転、寂しそうな瞳で笑う。

「あの子はね、とても優しい子よ。アデルさん。優しくて、そして、とても悲しい子。
貴方が、あの子に連れられて私の店に現れた時、私、“ああ、この人だ”って。“この人が、リリスちゃんを箱庭の外に連れ出してくれる人なんだ”って、そう確かに感じたの。
・・・・貴方は幾つか嘘をついていた。事情は何も分からないわ。でもね、アデルさん。その人の心の有り様は、誰にも隠せないわ。貴方がどんな心の持ち主であるかということだけは、決して隠せるものではないのよ。」
そこまでを一息に吐き出すと、マルグリットは眩しさに目を細めるような顔をした。
「貴方のお祖父さんが、ブラウンさんのお知り合いだという話。私、信じたいと思ったのよ。貴方のことを・・・信じようって思ったの。」



アデルは、丘を下る道の向こう側に見えなくなるまで、マルグリットの小さな背中を見送っていた。
そして、それが完全に見えなくなってしまうと、目の前の小さな家に、改めて向き直る。
確かめなければいけないことがあった。少女を助けた不思議な力。枯れてしまったチューリップ。彼女が、自分の探していた人物なのか。

家の木戸に手を掛けると、それは何の抵抗もなく、年代物の軋んだ音を立てて開いた。
室内は、今が丁度、日が窓から入らない角度に昇っているためか、薄暗い。
家の中に入って、すぐ右手側に置かれた長方形のテーブルの、アデルから対角の位置にある椅子に、入口から背を向けた形で座っているリリスがいた。俯いたその手には、片付けなければと慌てて持って行ったはずの、血で汚れたタオルが握られたままになっている。
「・・・片付けなくていいのか?」
細い肩が、ピクリと揺れた。しかし、彼女は顔を上げない。
聞きたいことは沢山あったが、そのどれも、上手く切り出す言葉を見つけられずに、アデルは、気まずい空気に耐え切れず、なんでもいいからと場を繋ぐ言葉を探す。
「・・血は、時間が経つと落ちにくくなる。早めに洗ったほうがいい。」
言いながら、自分の服も、エミリーの吐き出した血でべっとりと汚れてしまっていることに気がついた。

「・・・・・・す・・・。」
「え?」
「・・・騙すつもりじゃ、なかったんです。」
リリスの声は小さかった。
俯いたまま、表情は見えない。だが、何かを真剣に、必死に伝えようとしていることだけは分かった。
その声を聞いて、アデルも、自分が聞かねばならないことと、向き合う覚悟を決めた。

「さっきの、その、・・力は?」
「・・・・小さい頃から・・私には、不思議な力がありました。この力を、なんと呼んでいいのか、私にも分かりません。この掌で触れたモノの生命エネルギーを奪い取って、それを別のモノへ分け与える力。」
枯れていた庭のチューリップの姿を思い出す。
チューリップの生命エネルギーが、リリスの身体を媒介として、エミリーの傷を癒した。彼女の言っていることは、そういうことだ。
似たようなことを、彼女は以前、薬草を作ることについて言っていた。
「前に話していた、薬草の話は・・・」
「そのお話は、嘘ではありません。薬草作りは、何も特別な力は使っていません。植物の持つ生命エネルギーを、人が取り込みやすい形にしているだけ。私の力は・・・・それをちょっと強引な形で出来る・・・というだけ・です・。」
”それだけ”という言い方をする割には、リリスはどこか自分のその力を恐れているように見えた。ぎゅっと、強く自身の手を握りしめている。
「初めてアデルさんにお会いした時、・・・『君が、”魔女”と呼ばれている人物か』と聞かれました。その時お答えしたことも、嘘ではありません。この場所で、”魔女”と呼ばれていたのは、私の祖母でした。この岬の素敵な庭や、良く効く薬草を作る祖母のことを、町の皆さんは敬意と親しみを込めて”魔女”と称していました。そして、いつしかこの場所も、”魔女の岬”と呼ばれるようになっていました。」
そこまで話すと、リリスはやっと、アデルの方へ身体を向けた。振り向いたその顔は、酷く思いつめた表情をしていた。

「今日まで、アデルさんにお話したことに、嘘はありません。でも・・・・この力のことだけは、どうしてもお話することが出来ませんでした・・・。」
それはそうだろうと、アデルは思う。彼に、リリスを責める気持ちは全くなかった。
今になって、魔女の岬へ行くことになった時の、町の人々の視線の意味が分かる。リリスのあの特別な力の存在が、外部の人間に漏れてしまうことが、どんなに危険なことか、それは想像に難くない。下手な人間にバレてしまったら、噂は瞬く間に広がっていき、その力を悪用しようという人間が必ず現れる。そしてそれは、リリスの身が危険に晒されるのと同義だ。

『私はね、貴方を買っているの。』

マルグリットは、アデルを信用したからこそ、この場に彼を連れてきた。そして、彼女の信頼を感じ取ったからこそ、戸惑いながらも、町の住人たちは、何も言葉を挟まず、マルグリットの意見に従った。
(リリスが今まで、何事もなく暮らしていられたのは、この町の人達が、こうして彼女を守っていたからだ。)

アデルは、その住人たちが築き上げてきたものを、今、自分は壊そうとしているのではないかと、瞬間、躊躇する。
自分のここまで来た目的を、使命を、忘れたわけではない。それが、いかに重要なことかも分かっている。しかしアデルの唇は、それを、口にすることを躊躇っていた。

「・・・・私の力、驚きましたよね・・。」
「・・・・。」
「あの、私・・・っ!」
リリスは、泣き出しそうな顔でアデルを見る。しかし、大きく一度息を吸うと、また顔を俯かせてしまった。
そして、震える声で、言った。

「私は、・・・アデルさんの考えているような、怖い魔女じゃ、っ・・・ありませんっ・・」

膝の上に乗せられた手が、細かく震えていた。
そこでやっと、アデルは自分が大きな思い違いをしていたことに気が付く。
リリスは、アデルに力の事を告げず、彼を騙すような真似をしたことを、気にしているのではなかった。彼女は最初からずっと、魔女の岬に住んでいる“魔女”の存在を気に掛けていたアデルに、怖がられ、嫌われてしまうことを恐れていたのだ。
そのことに気が付くと、アデルの口元は、自然とほどけた。思わず、笑い声が漏れてしまいそうな程、急激に気持ちが軽くなって、今まで纏わりついていた緊張の糸がほろほろと緩んでいくのを感じる。
目を伏せたまま、アデルからの言葉を恐々と待っているリリスの姿に、緩んだ口の先から、思わずため息が出た。その音にすら、ビクリと反応する縮こまった肩が可笑しかった。

確かにアデルは、彼女が魔女なのではないかと疑っていた。しかし、それはあくまでも、任務のために、そうであるか否かを見極めなければならなかったからだ。
そもそも、魔女と呼ばれる者が、一体どういった人間なのか、彼には全く想像もつかない未知の存在だった。だから、彼女が何かをする、そのことある毎に、様々な可能性を考えて、通常よりも余分に警戒していたところがあった。
彼女はずっと、アデルが魔女の存在を気に掛けていること、そして、それを恐れていることが分かっていて、まさか、自分にこんな力があるなどとは、言うことが出来なかったのだ。
(しかし、力を知られることを心配するのではなくて、それを知られることで、俺に怖がられることを気にするなんて・・・。)
アデルは、彼女の様子を伺っていた今日までの数日間で、拍子抜けするような思いを何度もしてきた。そしてもう、十分すぎるほど分かっていた。
この少女が、人に危害を加えるようなことなど、するはずがないのだと。

「・・・俺も、君に話していないことがある。」
「・・・?」
リリスの顔が上がる。不安に揺れる瞳が、アデルの心を推し量ろうとしていた。
アデルも、もう彼女に全てを話すことに躊躇いはなかった
「俺がこの町へ来たのは、噂の真意を確かめるためだ。」
「・・・噂・?」
「人伝てに・・・それも、酷く曖昧で不確かな情報で、ただ、『どんな病でも治す魔女がいる』と・・・そう聞いて、噂の元を探り、辿り着いたのがこの場所だった。」
「!」
「安心していい。恐らく、俺が聞いた噂は、君のお祖母さんのことだ。人によって伝聞の内容に差はあったが、誰も君ほどの特別な力の存在を臭わせることは言わなかった。
・・・ただ、どのようにして治すのかという部分について、詳細を語る者がいなかったから、俺にも想像がつかなかった。“魔女”という呼び名に、怪しい呪いのようなものを想像していたことも確かだ。それで君を不安にさせてしまったことは、謝る。すまなかった。」
何を謝られているのか呑み込めないまま、リリスは「いえ・・。」と小さく答えた。そして、おずおずと尋ねる。
「あの、どうして・・・アデルさんは、その噂を探っていたんですか・・?」
当然と言えば、当然の質問だろう。アデルは一呼吸置くと、言葉を待っているリリスの視線を感じながら、一歩ずつ、長方形のテーブルを回るように足を進めた。そして、リリスのいる方へ近づいていく。
「ここで、魔女と呼ばれている人物が、どのような人物か、そして、どのような能力を持っている者なのか、それを実際に会って確かめ、見極めなければならなかった。」
「見極める・・?」
「その人物が、我が国に、必要な人材であるのかを。」
「アデルさ、・・・」

アデルは、リリスの目の間で立ち止まり、座っている彼女の目線に合わせるように、片膝をついた。
突然のアデルの行動に、リリスの目が驚きで見開かれる。


「俺は、ガーデンハート国、国軍少佐。アデル・ガーランド。
リリス・ブラウン。君に、俺と共に、我がガーデンハート国に来てもらいたい。」


To be continued....


No.520|GardenComment(0)Trackback

『Garden』-第一章:魔女の岬に住む少女⑥-

2015/06/25(Thu)20:11


宿屋の女主人は、庭へ洗濯物を干し終え、店先に心ばかり置いてある鉢植えへ水をやると、窓辺に寄り、目覚め始めた街の喧騒に耳を傾けていた。
あまり行儀の良い食べ方とは言えないが、息子が焼いた自家製パンの売れ残りを一口サイズにちぎりながら紅茶に浸して味わう。
大方、朝の家事仕事を終えてしまった彼女が、一息吐ける何でもない朝のひと時。

向かいの酒屋は、まだ開かない。主人よりも先に姿を現したのは、そこで飼われている老犬で、よたよたと覚束ない足取りで出てきては店先に座り、のんびりと大きな欠伸をしているのが見えた。
(お向かいのジョンも、もう歳ねぇ・・・。)
向いの主人は、飼い犬が亡くなる度に新しい犬を飼っているが、今、自分の目の前で呑気な姿を見せているのは、ジョンだったか、はたまた、マイケルだったかしらと、他愛もないことに思いを馳せる。そんな、贅沢な時間の使い方が出来るということが、何よりも幸せだ。
そうして、彼女が朝靄の引いていくのをのんびりと眺めていると、突然、頭上から慌ただしい音楽が降ってきた。

ドッ、ドカッ!バタンッ!ドタッドッ、
ドッタッタッタッタッタッ・・・!!

慌てた調子っぱずれの足音に驚いて背後の階段へ目を向けると、丁度、足音の主である宿泊客の青年が、階下にその顔を覗かせたところだった。
酷く動揺した様子の青年の、いつもならばきっちりと整えられているはずの髪は、正に起き抜けのそれで、頭上の毛が見事に跳ね上がっている。

「おはよう、ガーランドさん。今朝は、よく眠れた?」
「お、おはようございます。はい。その・・・思いの他、深く寝入ってしまったようで・・あの、朝食の時間に間に合わず、申し訳ありません・・;;;」

何をそんなに慌てているのかと思えば、どうやら彼は、今朝の朝食に乗り遅れてしまったことを気にしているらしい。
確かに、ここへ泊りに来てから今日まで、彼が朝食の時間に遅れたことはなかった。とは言っても、ここでの朝食に、元々時間の縛りなどは存在しない。何せ、自分と息子と、極たまに利用する宿泊客の3人分だ。簡単な物ならば、いつでも出せる用意はあるし(もとより、こんな田舎街唯一の宿屋に、質の高い食事を求めるような客はいない)、何より、自分たち親子の起床時間は早く、朝食は基本的に6時とかなり早朝になる。

大抵の宿泊客は、昼の少し前にのんびり起きて来て、ほとんど昼食に近い朝食を、これまたゆったりととってから、街へ出掛けていく。実際、早起きをしてまで、観るようなところもない街だ。
宿泊初日から、自分たち親子と同じような時間帯に起きて来て、一緒に朝食をとる彼のような客人の方が珍しいのだが、どうやら、決まりとでも思っていたのか、片づけ等の手間を気にしてくれているようだ。

女主人は腰を落ち着けていた丸い座面の木イスから立ち上がると、律儀な青年の、見事に1段飛ばしで掛け違えているシャツのボタンを直してやった。
青年は、明らかに焦った顔をするが、そこは年季の入った女性だ。うむを言わせず、慣れた手つきで全てのボタンを正してやると、「はい、出来上がり。」とその胸を叩く。
「さ、顔を洗って、その跳ねっかえった頭を整えてきなさいな。その間に、あたしは朝食の準備をしておきますからね。」
指摘されて初めて気が付いたのか、青年は慌てて自分の頭を押さえた。
「あ、はいっ、 あ、いえ、その、あ、ありがとうございます;」
では、失礼して。などと言い置いて、来た時と同様、足早に階段を上がっていく。
その背を見送りながら、女主人は口元へ手を当てクスリッと微笑んだ。
初めてここへ来たときには、若いのに随分としっかりした人が来たものだと思っていたが、どうやらあれは気を張っていたのに違いない。こうして見れば、まだまだ幼さの残る、どこにでもいるような若者だ。

「さてと、私は朝食の用意をしましょうかねぇ。」

女主人は、調理台の上へ置いていたエプロンを手に取ると、手際よく腰に巻き付けた。





あれは、魔術の類に違いない。

アデルは、本日何度目かの考えを、再度、心の中で呟く。
普段より少し遅めの(といっても、十分に早い時間なのだが)朝食をとり、女主人に笑顔で見送られながら宿屋を後にした彼は、昨日までとは比べ物にならないくらい明るい顔色ながら、完全に疑心で満ちた表情をしていた。

魔女の岬へ向かう足取りは重く、しかし、任務とはいえ、ほぼ日課になってしまったその道程は身体に染みついており、勝手に目的地へと向かっていく。

(とうとう、正体を現したか。最近は、俺も心を許し過ぎている気がしていたが、どうやらそれは、向こうも同じだったようだな・・・。)

完全に不穏な空気を纏っているアデルに、活動を始めた街の住人たちが不審な目を向けているが、今の彼にはそんな視線を気にしているような余裕はなかった。
ここ世界の端に位置するネリネ国の更に端、ラントへ来て5日目。
彼は、とうとう敵(?)の尻尾を掴んだとばかりの勢いで、緩やかな丘陵地の道を上っていく。

目的地の岬へ着くと、身構えるようにして一度立ち止まり、それから勢いよく鉄門を押し開けた。
その動きが少々荒っぽかったからだろうか、アデルが声を掛ける前に小さな家の裏から顔を覗かせた少女は、ワンピースの上からエプロンを腰に巻いたスタイルで、洗濯物を手に明るく出迎える。

「いらっしゃい、アデルさん。」

その悪意の欠片も感じられない様子に、一瞬揺らぎそうになった気持ちを引き締め、アデルは強い口調で返した。

「リリス!今日は、君に聞きたいことが・・・!」
「昨夜は、よく眠れましたか?」

アデルが言い終える前に、リリスの言葉が被さる。気が付けば、洗濯物の白いリネンを左腕にかけて、アデルのすぐ目の前にまで迫ってきていた。その表情は真剣で、初めて会った時、頭を強く打ち付けた彼を気遣っていた時と同じ瞳をしている。
そのあまりの迫力に、いつの間にか、アデルは相手へ掛けようとしていた言葉を手放していた。
しばらく、アデルの顔色を伺っていたリリスは、そこに陰りが見えないことを確認すると、また元通りの明るい笑顔に戻り、安心した様子で告げる。
「どうやら、よく眠れたみたいで、よかったです。」
その言葉に、弾かれるようにしてアデルは口を開いた。
「やはり、昨日のあのカモミールティーという飲み物に、何か、まじないを掛けていたのか・・・!」


昨日、アデルはリリスに促されるがまま、魔女の岬に戻ると、彼女の入れたカモミールティーと、シスターからお裾分けされたというフィナンシェなるお菓子を食べた。
自分は、任務のためにこうして彼女のもとへ通っているのに、いつの間にやら、茶飲み友達のような扱いになってはいないかと、何度も頭の中で己のしていることへの正当性を問い正していたりしたのだが、そんな彼の胸中など知らないリリスが、ウキウキとした様子でお茶の準備を始めてしまったので、アデルにそれを断るような大した理由があるはずもなく、ここ数日の通り、それらを頂くことにした。

そこまでは、よかった。
異変が起こったのは、その日、早々にリリスと別れ、1人宿屋へと戻るその道程だ。常にないくらいの壮大な睡魔がアデルを襲った。
この睡魔とやらを実体化したならば、相当に禍々しい魔物が現れるに違いない。それ程の眠気に、アデルは疑問を感じつつ、宿屋まではなんとか辿り着くことが出来た。そこから先、自分が一体、宿屋の女主人に何と言って声を掛けたのかもおぼろげで、気が付くと彼は、着の身着のまま部屋のベッドの上に横になり、ここ数日分の睡眠を取り戻すが如く、深い眠りについていた。

そして、状況は冒頭へと戻る。
ハッとして目覚めたアデルは、しばらく、己の置かれた状況が理解出来なかった。服装は昨日のまま、何もせずにそのまま横になり、そういえば、夕食はどうしたのだったか。それすらも、思い出せない。
窓から差し込む日差しの明るさと、部屋の片隅に何とはなしに置かれている、インテリア性からは程遠い素朴な木の置き時計に目をやって、そこで漸く、彼は勢いよく起き上がった。
勢いのまま、ベッドから転げ落ちそうになったところを、なんとか鍛え上げられた脚力で踏み止まり、そのまま部屋から飛び出しそうになってから、いや、まずは服を着替えなければとシャツのボタンに手を掛けて、それを一つ一つ外しながらベッドの方へと引き返す。しかし、そこでフと、着替える云々以前に、一度、宿屋の女主人には、朝食に遅れてしまったことを詫びなければと思い立ち、慌てて脱ぎ掛けたシャツのボタンを再び留め直して、階下へと駆け降りた。
彼が女主人に指摘されて、漸くボロボロな己の姿を顧みる余裕が出て来た時には、アデルは、部屋の片隅に備え付けられた小さな洗面台の前に茫然とした表情で突っ立っていた。

鏡に映る自分の顔色は、昨晩よく眠れたためか、明らかに晴れ晴れとしており、昨日まで見ていた悪夢が嘘のように、眠っていた間、夢を見たような記憶は1ミリもない。
顔を洗って、服を脱ぎ、タオルで身体を拭いながら、彼はゆっくりと一つの考えに至る。

(あの飲み物に何らかの薬を盛られたに違いない・・・っ!!)

もしくは、魔術の類に違いない。
昨日は、すぐに帰ったからよかったものの、あのまま居座っていたら、自分は一体どうなっていたのだろうか。初めてリリスのもとを訪ねた時以来の恐ろしい想像をしてしまい、アデルは小さく身震いした。
所詮はただの少女だと思い込み、どこかで気を許してしまっていたのが敗因だ。
(俺は、もう少しで、あの子に食べられるところだったのかもしれない・・・)
やはり、あそこに住んでいる人間は、見た目こそ何の悪意もなさそうに見せておきながら、それはそれは恐ろしい魔女だったのだ。





そこまでの経緯をアデルが全て話し終えた時には、彼は何故か家の裏の小さなベンチに腰かけていた。
恐ろしい魔女だと、そう訴えられたはずの当人は、目の前で呑気にも洗濯物を干している。

ここまでのことを彼なりに、かなり真剣に伝えたつもりだったのだが、どうやらそれは、彼女に全くダメージを与えていないらしい。
それどころか、彼女はアデルの話を聞く間、どこか楽しそうですらあった。
初めて出会った絵本の中の物語を聞くような、そんなわくわくとした表情で、彼女が話の先を促すものだから、いつの間にか、アデル自身も必要以上に力説していたような気がしないでもない。
彼女を糾弾するくらいのつもりで、ここまできたはずだったのが、いつの間にか、魔女に襲われそうになった哀れな青年の物語の語り部になっていたような気分だ。

洗濯物を干し終えたリリスが、空になった洗濯籠を両手で抱えて、家の方へと戻ってくる。

「そういえば、この間買ったリンゴを使って、アップルパイを作ってみたんです。
 おやつにするには少し早いですが、お天気も良いことですし、
 折角なので、このベンチで一緒に食べませんか?」

裏口の戸に手を掛けながら、そんなのどかな提案をされてしまえば、先程の話を一通り語り終え、毒気を抜かれきってしまったアデルは、「・・・そうだな。」などというおかしな返事を返すのが精一杯だった。
「ちょっと、待っていてください。」と言い置いて、リリスは籠を手に家の中へ消えていく。
アデルは肩透かしをくらったような気分で、しかし、これで彼女が本当に正体を現して襲い掛かってきた時はどうしようかなどと考えていたことからすると、幾分か安堵も交えて、小さく息を吐いた。

しばらくすると、フルーツのイラストで淵を彩られた大皿に、8等分に切り分けられたふっくらと大きなアップルパイを載せて、リリスが裏口から現れる。
両手で捧げ持つようにして出てくると、ベンチの右端に腰掛けているアデルの左隣りにその皿を置き、またパタパタと家の中へ戻っていった。
アップルパイから立ち上る豊かな香りに、美味しそうだとどこか他人事のように考える。アデルも、こののどかな空気に包まれて、先程までの己の激情が嘘のように静まっているのを感じる。話を全面的に聞き流されてしまったような気がしないでもないが、それならそれでいいという気すらしてきていた。

緑色に塗られた味のある木のベンチは、家の裏の物干し場とその更に奥に広がる大海が見渡せる位置にある。屋根の下にあるため、程よく日差しを防げるその場所は、海からの潮風も心地よく、のんびりとアフターヌーンティーを楽しむには、絶好の場所だ。

「お待たせしました!」

両側に金の持ち手が付いたトレーにケーキ用のフォークとティーポット、カップ&ソーサーを乗せて、リリスはアデルの丁度反対側に腰掛ける。
2人の間、アップルパイの隣にポットやカップを置き、テキパキと慣れた手つきでリリスが小皿に取り分ける様を、勝手の分からないアデルは手を出すことも出来ずに眺めていた。「はい、アデルさん。」と差し出されてしまえば、「ありがとう・・・」と返す以外に言葉もなく、また、やはりここまできて断ることも出来ずに、受け取るしかなかった。

「・・・また、変わった香りだな。」
受け取った紅茶を鼻先へ近づけてアデルがそう口にすると、リリスはにこにこと嬉しそうに「今日は、アールグレイにしてみました。」と答える。
もちろん、アデルの辞書にアールグレイなんて名前の飲み物は載っていないのだが、昨日の今日で、そこを敢えて聞くのもなんだか空恐ろしく、だからといって、このまま飲むのもやはり恐ろしい。気を削がれたからといって、昨日のことを忘れられたわけではない。

神妙な面持ちで、紅茶に口をつけあぐねていると、アップルパイを挟んだ左隣りから「フフフ」と小さな声が漏れ聞こえた。
「アールグレイなら、眠くなったりはしないと思いますよ。」
リリスの言葉に、アデルは顔を上げ、「じゃあ、昨日のはやはり・・・」と瞬時に顔色を青ざめさせる。そんな彼を面白がって、リリスは一度声のトーンを落とすと「そう、実は、闇の魔法を使ってアデルさんを・・・・」と言いかけて、面白くなってしまったのか「ウフフ」と笑い声を挟むと、「冗談です。」と白状した。

「昨日、アデルさんにお出ししたのは”カモミールティー”と言って、ハーブティーの一種なんですが、ハーブには色々な効能があるんです。
カモミールにはリラックス効果があって、不眠症の方なんかには、とてもオススメなんですけれど・・・すみません。まさか、アデルさんにカモミールティーがそんなに効くとは思っていなかったので、驚かせてしまいました。」
「普通は、そんなことにはならないはずなんですが・・・」と、不思議そうに首を捻りつつ、「きっと、アデルさんの体質にとても合っていたんですね。」と丸く収めるように言葉を閉じる。
アデルを安心させるように、自分の手元のアールグレイをこくんと一口飲み込むと、またにっこりと微笑んで見せた。

アデルは、幾度か視線を紅茶とリリスの間で彷徨わせ、やっと、意を決したのか、それに口をつけた。
初めて口にするアールグレイは、独特の味ながら、ここに来ていつも口にする他の紅茶と同じように、淹れた者の人柄が表れているのか、とても優しい味がした。

「・・・・ハーブというのは、薬草の一種だな・・?」
「はい。あ、でも、カモミールには、アデルさんが考えているような強い効能はありません。」
「何故、俺がそう考えていると思う・・・。」
「眉間にシワが寄っています。」
怪しむように尋ねるアデルに、リリスは穏やかに対応しながら、自分の額を軽く指す。
アデルは気を静めるように、また一つ、ゆっくりと息を吐き、無意識に入ってしまった額の力を緩めた。

「『魔法のハーブティーを飲ませた恐ろしい魔女の目的は、その青年と一緒に美味しいアップルパイを食べることだったのです。』・・・・あまり面白い結末には、なりませんでしたね。」
リリスは、何故か少しばかり残念そうな様子で、アップルパイの端をフォークの先で小さく切り取り、口にした。アデルもそれに続くように、アップルパイを口へと運ぶ。つい先日街で買われていたあの丸くて赤い果実が、今では、こんなにしんなりパリッとした飴色の食べ物になっているなんて、料理のことに関しては、赤子同然の知識しか持ち合わせないアデルには、思いもよらないことだ。
(これも、魔法と言えば魔法みたいなものか・・・)
あれほど慌てた今朝の事が嘘のように凪いだ、・・・そして、半ば投げやりな気持ちで、そんなことを思いながら、アデルは目の前に広がる美しいコバルトブルーを見つめた。

本日は天候も良く、海からの風も優しい速度で海面を揺らしている。
耳へ届くさざ波の音色は、母の揺する揺り籠の様に一定の間隔を保っており、その心地良さは眠気を誘った。


「・・・アデルさんは、どうしてここへ来たんですか?」


隣りを見ると、リリスは真っ直ぐ海を見つめたままの姿勢で、膝の上の小皿にフォークを置いていた。不意にリリスから放たれた質問があまりに唐突過ぎて、アデルは、すぐにその答えを返すことが出来なかった。
初めて彼女と会った時、確かに自分は、仕事でこの街に用があって来ていると答えたはずだ。まさか、自分の偽りがバレたのだろうか。ここへ来てからの己の行動を振り返れば、バレるような要素はいくらでもあったのだが(何しろ、連日彼女の元へ訪れているのだ)、心のどこかで、彼女はそれに気付かない。もしくは、気付かないでいてくれると考えていた。
言葉を継げずに一度空いてしまった間は、どうしたって不自然になる。
アデルは思いつく限りの返答を考えては頭の中で打ち消すことを繰り返し、そして、それら全てを口にすることを諦めると、同じように海の方を見つめた。

「君は、この世界をどう思う。」
「?」
問いに対して返された問いに、今度はリリスがアデルの方を向いた。アデルは振り向かずに続ける。
「この世界は、とても狭い。人は、こんな小さな世界を国という勝手な単位に切り分けて、食い合うように争い事を起こす。そのほとんどが、同じ一続きの陸地で繋がっていながらだ。そんな必要が、一体どこにあるのだろうかと、俺は度々考える。ネリネ国は、世界の中でも端の方にあって、比較的安定した治世の国だ。この小さな街に暮らす人たちにとって、他国の人間がどんな暮らしを営んでいるのかなんて、日々を生きていくためには、きっとそれほど重要なことじゃないだろう。貿易での関わりがあるとしても、それは決して、お互いを害する関係などではないし、その必要は双方に存在しないはずなんだ。」
淡々と、しかし強い意志がこもった瞳で話すアデルの言葉は、彼の中で何度も反芻され、噛み砕かれたものなのだろう。それは一つの確信を持った音で、リリスの耳へ届いた。

「一人一人が、手を取り合うことが出来るように、世界は一つになれる可能性を持っている。俺は、そう思っている。」

穏やかな潮風が、2人の間を吹き抜けていった。
さらさらと、視界の上を流れる前髪と、その向こう側のアデルの横顔を見つめ、リリスは再び、ゆっくりとその視線を海へと戻した。

「・・・私、昔・・小さい頃ですけど、『国境』がなんなのか、分からなかったんです。」
「・・・?」
「地図の上に引かれた不思議な形の黒い線が、一体何を示しているのか、幼い頃、街の学校で先生に訊いたことがありました。先生は優しく『これは、国と国の境』だと教えてくれましたが、私は、そこには山や川といった何か物理的な物があって、それを示しているのだと思っていました。・・・なかなか理解してくれない私に、いつもは優しい先生も、とても困った顔をしていたのを覚えています。」
リリスは懐かしむように目を細める。
「私は、物心ついた時にはこの街にいて、ここから外へは出たことがありません。だから、アデルさんの感じている世界の狭さや、国同士の争いの悲しさを全て理解することは出来ません。でも・・・・」
きゅっと、膝の上に置いた両の手に力が入る。紅茶色の瞳が、海の青を反射して瞬いた。
「でも、世界の本当の姿が、何の線も引かれていないまっさらなものだとしたら、それはきっと、また元通りの形に戻ることが出来るはずです。」
「・・・・。」
「私は、そう思います。」

そう口にした彼女の瞳は、遠く海の向こうを見据えていた。
地図上に引かれた目に見えない境界に囚われることなく、眼前の海原はどこまでも遥か彼方へと続いている。
アデルは、この少女が己の探している人物であったならばと考えながら、それを口に出すことはせず、黙ってアップルパイを一欠け口へと運んだ。

「・・・すみません。私が変なことを聞いたからですよね。」
「いや、俺の方こそすまない。ちゃんと返答すべきところを誤魔化すような真似をして・・・・」

言うべきだろうか。今、彼女に。ここへ来た、本当の目的を。

アデルが硬い表情で考え込んでいると、左隣りに座った少女は「ふう」と一息、晴れやかな表情でアデルの方を振り向いた。
「ここのところ、アデルさんが毎日ここへ来てくれることが嬉しくて。アデルさんは、ここでのお仕事が終わったら、帰っていってしまうんだということを考えたら、なんだか急に寂しくなってしまいました。」
「・・・・は?」
すぐに追及や非難の言葉が返ってくるものと思っていたアデルは、思いもしない彼女の言葉に、文字通り目が点になる。
「困るだろうって分かっていたんですけれど、つい・・・こんなに寂しい気持ちになるくらい、アデルさんはどうしてここへ来てくれたりするんだろうなんて、身勝手なことを考えたりしてしまって。」照れ笑いのような表情で続ける彼女の言葉に、アデルはただただ唖然とするしかない。
「久しぶりに、お茶やお菓子を振る舞う機会が出来たのに、とても残念です。」
「そ、そうか・・・。」
てっきり、こちらの嘘が見抜かれてしまったのかと思っていたアデルは、拍子抜けして、思わずフォークを取り落しそうになった。(嘘とは言っても、仕事で来ているという点では、間違ってはいないことは確かだ)遠慮がちに寂しさを滲ませるリリスを、しばらく、黙々とアップルパイと紅茶を口にしながら観察するが、アデルの行動について、それ以上特に勘ぐっているような様子はない。先程の急な質問は、本当に寂しさから出たもののようだ。
考え過ぎて逆に大きな墓穴を掘ってしまったと、己の迂闊さにつきそうになった溜め息を紅茶と一緒に飲み込んだ。
先程の質問について、リリスの方では、大して気にしている様子はない。アデルはそれ以上、新たな墓穴を掘らないためにも、口を噤むことにした。

(・・・・仕事が終わったら、帰る。そうだ。そろそろこの任務も、この辺りで見切りをつけなければ。)

任務のタイムリミットは、確実に近づいてきていた。


To be continued....


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